記憶や意識を
人は一体何を確かなものとして生きているのだろう。
もしかしたら、そういった確かなもの、というものは必要なく、日々の出来事に対処している、という事自体が確かなものかもしれない。
しかし、記憶が定かではない時、一様に不安を持つ。
というところから言えば、記憶というものが、「私」を支えているだけだともいえる。
その私を支える記憶が曖昧になるのは、加齢から来るものであったり、何かしらの病気や事故によるものもある。
「記憶」が支えという、本当に頼りにならないものが「私」の支えであるなら、これほど頼りのないことは無い。
私を育ててくれた大伯母が、入院していた時見舞いに行くと、それこそ記憶が混濁しており、私という事に気付いてはいるが、現在の私ではなく、子供の頃の私や、働き出した頃の私だったりした。
その伯母の話に話を合わせているのが楽しかった記憶がある。
たかだか記憶と一口で言えるが、そしてそのメカニズムもある種の脳科学では解明できるのだろうが、「私」との関係についてはどうなのだろうか。
「私」の記憶が間違っているとした時、その間違いを分かる客観的な手立てはない。
間違っている記憶を正しいと思い込む作業も同時にあるからだ。
そうなってくると、ますます「記憶」をアウトプットする時の自分自身が重要になる。
それは、自分の記憶を美化せずに引き出せるのかということも絡んでいるからだ。
いきなり、何の話だ?と思われるだろう。
こんな「記憶」や「意識」という世界をテーマにした作品の話だ。
明日からのヘルシンキでリハーサルに入る。
しかも、説明的なセリフを一切作らずに進行させる予定だ。
それは、説明というセリフにヘキヘキしているからだ。
演劇の歴史を詳しくは知らないが、大方の台詞はそういうことだろう。
「もうええやんけ、それはやりつくしたやろ」なのだ。
日常の会話でも、説明的な言い回しの人がいる。
「どうでもええから、早よ言え」と何時も思うことも一因だ。
何がうっとおしいかというと、説明的な言葉からは本人が見えて来ないからだ。
本人の血や汗が感じられないからだ。
説明なら、誰が言っても同じだろう、なのだ。
そして、演劇で言うと、役者から発声や演劇メソッド、変な思い込みしか見えて来ないからだ。
そこに一発挑戦してやろう、というのが、今回のヘルシンキ公演だ。
劇場側もメディアを使って大きく宣伝してくれているという。
後数時間で演劇の世界に踏み込んで行く。
大阪ワーク・ショップは5月5.6.7.8日、東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/