結果は同じでも
しかし、大方の人は結果としての「出来た」を目指す。
「出来た」を目指した時、その「出来た」は、それを作った人の出来たではなく、自分の出来ただ。
もちろん、競技や試験等何かしらの結果だけを求められる場であればそれで良い。
「出来た」だけに意味があるからだ。
日常生活というか、日常社会生活というか、そういった普通の時間でも、「出来た」という結果を求められる。
そうなると過程など何でもよいということになる。
しかし、果たしてそうだろうか。
例え結果重視であったとしても、というよりも結果だけが大事だとするからこそ、逆にそこに辿り着く為の過程が大事だ。
もちろん、ここでいう過程が大事だというのは、より合理的にという意味でである。
だから、冒頭の過程が大事というのと、同じ意味ではない。
私のいう過程に興味がある、というのは、その人の歴史に興味があるということだ。
その歴史という過程の中に、発見があったり、気付きがあったりという、印象的な事が紛れ込んでいるだけなのだ。
明日からの「武禅」では、「声を届ける」というワークがある。
大方の人は届かない。
そこに気持ちが無いからだ。
届けたいという気持ち、私がという気持ち、つまり、こころを届けたいとこころから欲していないからだ。
そこには方法は無い。
しかし、「出来た」を目指す人は、芝居がかった事をしてみたり、色々な演出をする。
しかし、方法を駆使すればするほど、余計に違和感が溢れ出し、届くには程遠くなる。
そんなことより、「こころから」になる為にどうすればよいのか、と考えなければいけない。
また、自分は過去そういった体験があったかどうかを拾い出さなければいけない。
しかし、どうしても「出来た」側に行く。
結果、行き詰ってしまうのだ。
つまり、目標設定のミスが、行き詰りを作るのだ。
もちろん、「こころから」側にいったとしても、行き詰りは来る。
しかし、それは自分自身に対してもがいているから意味がある。
どう意味があるかというと、「自分の過去は何だったのか?」と自分を問う事になるからだ。
しかし、「出来た」側に行くと、単純に「できなかった」で終わる。
そうすると、単に難しいワークだったと、自分の外側の問題になる。
すると、自分は一切の葛藤が無く、つまり、成長の兆しを捕まえる以前で、自分の成長を門前払いしたことになるのだ。
自分の問題にする、ということが如何に難しいかということなのだ。
大阪ワーク・ショップは5月5.6.7.8日です
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