コンテンポラリーダンスを考える

もしダンスが、現在のように肉体運動の域をでないなら、近い将来その職業は無くなるだろうと感じる。
もしそれが、無くならないとしても、マニアのような人達だけの楽しみになるのではないかと思う。
ダンスが肉体運動だとするならば、シルクドソレイユや新体操や体操、それにフィギャアスケートの運動には敵わない。
というようなことをダンサーは考えないのだろうか。
もちろん、ダンス学校やスタジオでは、思想や創造性を教えるのかもしれないが、それが見えて来ないダンスでは、肉体運動としかいいようがないのだ。
「こいつ、一体何をしているの?」なのだから。
今回のように、集中してダンサー達と関わった時、そういった事を危惧してならない。
もしも競技であるなら、競技として楽しむことが出来る。
しかし、舞台芸術ということであるなら、それは肉体運動ではないが、実際として動きからそれが見えてこなければそれではない。
そんなことも考えないのだろうか。
スイスでは芸術学校があり、そこから毎年ダンサーが卒業していくが、その受け皿であるダンスカンパニーの少なさが、国の問題として取り上げられているという。
スイスの場合は、仕事=税金の徴収という、明確な構造があるからだが。
しかし、いくらダンスカンパニーが出来ようが、先ほどの肉体運動がダンスだとするならば、この先は見えている。
だから、世界的にパフォーマンスという、「何でもあり」の状況になるしかないのだ。
昨日まで会社員で、ダンスの素養も修練もしていない人が舞台に立ち、タトゥーをするパフォーマンスがあったそうだ。
そういった人達と混在するのがコンテンポラリーダンスである。
もちろん、舞台でタトゥをするのを、お金を払ってみる人がいるということに驚くが、現に成立しているのも事実だ。
こういった状況になったのは、コンテンポラリーダンス界の怠慢としかいいようがない。

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