すでに持つ差。それに気付けないとは
外付けハードの一件は、どうなるか分からないが、業者に任すことにした。
いつも、こういった局面になると考えさせられる事がある。
「では失ったものは、本当に大事なものだったのか」である。
確かに、大切な書類関係はある。
しかし、それは「記憶」が「大切な」としているだけで、今後の時間において大切かどうかは分からない。
「無けりゃ無いで」という考え方も、私は持っている。
その意味では、さほど深刻にはならない。
今から4日目、今日を入れて2日だ。
やっと、私とは身体が違う、ということに気付いて来た。
今回のワークショップでも全員の相手をし、何が違うかを探求させている。
私は、ワークショップや教室でも、誰かに受けを取らせる。
その意味は、その受けを通して気付いて欲しい事があるからだ。
「出来る・出来ない」ではない。
もちろん、全員に公平に身体操作をする。
しかし、それぞれの人のレベルでしか体感出来ないし見えない。
だから、それぞれ同士が共通する感覚を持つことは出来ない。
ただ、その感覚を言語化しなければ分からないから、それぞれが言語化する。
そうすると、感覚は違っていても言葉を信じるのが好きな人達だから、「同じだ」ということにもなる。
もっと言えば、「いやそうではなくて、こうだろう」という会話には絶対にならない。
当然、そこから何かが創造されることは無い。
「みんなはダンサーであり、振付家なのに、どうして創造性がないのだ?」
昨日は工夫ということで、そんな話をした。
今日も、少しそういった話をしてみよう。