誕生日だった
毎年、確かにやってくるものといえば誕生日。
子供の頃、誕生日を祝った記憶は無い。
もしかしたら有ったのかもしれないが、全く覚えていない。
曾婆ちゃんに育てられたから、まるで無頓着だったのかもしれない。
10代の水商売をやっていた時も、ジャズドラムの時代も、誕生日を忘れていた。
武道一本になり、突然誕生日がやってきた感じだ。
祝われ慣れていないから、当初、どう対処したらよいのか戸惑ったものだ。
道場生達が祝ってくれるようになり、誕生日に慣れたものだ。
私にとっての誕生日は、そういったように単に通り過ぎる一日だったから、「誕生日に思う」という改まった習慣がない。
しかし、改まるのも面白いので、今回の誕生日は一寸考えてみよう。
空手の頃の先輩から「祝い事は数え年だから、もう古希ですよ」とメッセージを貰った。
そうか、古希か、であればだ。
一から新しいクセをつけてやろうかと考える。
結局は、人はどんなクセを持つかということが、自分自身を決定づけているからだ。
武道や音楽を考えたり、身体を稽古するクセは完全に付いてしまっている。
そこに何か別のクセを。
「やったらしまいや」「やり続けたら何とかなる」それだ。
そこで「結果はどうなるの?」という、意味のない不安クセを持ち込むから足踏みをしてしまうのだ。
明日のことを考えてもどうにもならない。
それよりも、「今、やればよい」である。