過去の言葉は「今」を語れない
「言葉は通じない」が、通じる人もいる。
もちろん、通じると私が一方的に思っているだけだ。
逆の、通じないと思うのも、私が一方的に思っているだけだ。
通じないと思うのは、本意が伝わっているような反応が無いからだ。
では、本意は伝わるのか、というと、それは分からない。
「分からない」のだ。
つまり、どこまでいっても何も分からないのだ。
この「他人と通じる」というのは、希望や願望の一つだと考える。
だから、どうだって良いのではない。
それを持っているのか、持っていないのかで、「何か」の感応、あるいは、饗感が他人との間で起こるか起こらないかになるからだ。
もちろん、何が響き合っているのは分からないが、確かにそこに響き合っているもの、伝わっているものがある。
その状態の時、私は一切それを解釈しないし、相手にも言語化しないし要求しない。
そこに感じた共通の感動だけで十分だからだ。
十分というのは、生きているということ、まさしくここに、他人がいることを実感出来ているからだ。
それは、自分が持つ言葉という固定概念には、収まらないことだからだ。
言葉という過去の産物では、捉えられない状態だからだ。
2005年にドイツのフォーサイスカンパニーに、初めて指導に行った。
2週間のWorkshopを終え、みんながパーティを開いてくれた。
スペイン・バスク出身のベテランダンサーであるヨネさん。
彼女が私に何か語りかけてくれた。
但し言葉は無く。
私と只々見つめ合った数分。
それは一生に値する時間だった。
言葉ではない、ということを実感させてくれた時間だった。
それこそこころの友という瞬間を持ったのだ。
心理学者は、色々と言葉を用いて説明するが、過去の産物の並び替えで、一体人の何が分かるというのだろう。
あくまでも、個人の解釈という一方通行であり、その解釈を、個人が一方的に解釈しているに過ぎない。
どこまでいっても、「水」という実体にレッテルを貼り意味を知ることはできても、実体そのものを説明できないのと同じなのだ。
言葉が精密になればなるほど、本質から遠ざかっていく。
次元がすれ違っていく。
そんな気がする。
これも私の一方的な解釈にすぎないが。
意味ではなく実感は既にある。
そこに気付くか否かだけなのだ。
誰にでもあるものである。