全ては個人のもの
『武道の達人、伊藤一刀斎は師鐘巻自斎に対して「先生わたくしは剣の妙機を自得しました」と言い放った。自斎は大いに怒って「未熟者が何をいうか」とののしったが、かれは平然として「しかし先生、妙とはこころの妙である以上、みずから悟る外はないではありませんか。決して、師から伝えられるものではないと思います」と抗弁し一歩も譲らなかった。』と書かれてある。
当初、そうでもあるだろうし、しかし違うかもしれないと思っていた。
しかし、この年令になると、それしかないだろう、と確信している。
先日の「明鏡塾」でも、そういった話を少しした。
理学療法的治療を教わる、あるいは、整体としての技術、鍼灸としての技術を教わる。
それを実際として使うのは、教わっている当人だ。
そして、教科書から実際への橋渡しをするのは当人だ。
教科書に書かれてある抽象を具体に転換させるのは、間違いなく当人でしか無い。
その「転換させる」という作業の積み重ね、そこでの創意工夫は、全ての人で異なる筈だ。
それは、その教科書の抽象をどう解釈したのか、あるいは、どう患者さんの身体に触れているのか、どの程度の圧力なのか、全部違うということだ。
それぞれの創意工夫の結果、教科書はある種実践化されるのだ。
創意工夫という時点で、それぞれの当人のものになっているのだ。
教科書を踏み台にして、当人が作り出すものなのだ。
そういった事を考えていくと、どんなことでも同じだと言える。
その意味で「明鏡塾」を受講してくれている人は、どれだけ沢山「明鏡塾」のWORKを踏み台に出来るか、踏み台にしてそれぞれのスタイルを確立してくれるかが、存在理由でもあるのだ。
武道で◯◯流という流派を習うとする。
その○○流を下地として、どれだけ深く自分自身を探求することができるか。
そこが武道なのだ。