自分の名前くらいは
「字」というのは相当面白い。
数学のテストのように、そこに間違いが見えてしまうからだ。
ただ、数学のような間違いではない。
自意識という自分自身そのもののレベルということだ。
「字」で誰もが気にする、上手下手のことでもない。
もちろん、上手に越したことは無い。
上手になる過程の中で、何を培ったのかが見えるのだ。
もちろん、私のように全く「字」を練習した事のない、いわゆる下手くそな字であっても、そこには自意識が見えてくる。
字を書きながら「あかん、また意識している」と自分自身に気付いてしまう。
そういった事を気にするようになったのは、40歳を過ぎてからだ。
ある個展に招待され、そこで記名を求められ名前を記入した。
その時「何て下手な字だろう」と、自分の字を見て情けなく思った。
本当にそう思うなら字を練習したらよいだけだ。
だが、それをしなかった。
だから上手になる事はない。
しかし、同時に「字」や「書」に興味が湧いた。
興味を持って見てみると、上手下手は分からないが、この「自意識」は丸見えな事に気付いた。
その目を持った時、自意識のレベルという視点で、書や絵画を鑑賞するようになり、全く異なった楽しみが増えた。
記名を求められた時、あるいは、ホテルなどのチェックイン時、自分の名前を書く。
下手でもとにかく丁寧に書こう、その意識の仕方が、自分自身の汚い字を少しずつ少しずつ「字」に成長させてくれている。
せめて、自分の名前くらいは、住所くらいは、と目的を変えて行くことが、亀の歩みの成長の手段だ。
いずれにしても「やり続けなければ」どうにもならない。
ボーッとした正月を明けたら、相変わらずやり続ける日々だ。