自分は誰?

武禅のレポートには「後ろから『オイ』と呼ばれた時、自分も聞こうとして前を歩いているけど、日常の場合、私はきっと呼ばれても素通りしてしまうだろうと思いました。同時に、今までの人生で自分は誰かに明確に呼ばれた事が無いことに気付きました。」というような発見がある事が書かれている。
大方の人の日常は、それこそステレオタイプなのだ。
つまり、それぞれがさほど自分に注意をしていないし、相手にも注意を向けていないのだ。
それは、自分自身の努力無しに、既に有るからだ。
もちろん、それは自分のせいではない。
そのように、その「有る」は、自分が「有る」としたものではないのだ。
まるで、TVを見るような、あるいは映画を見ているように、自分とは関わりのない、しかし、その中で生活が有るのが日常だ。
自分とは関わりが無くても有るということを、奇妙だと感じなければ別に支障は無い。
空気のように親がおり、周りに人がおり、何時ともなく友人らしくなり、何とはなく学校に行き、就職する。
全て、「有る」のだ。
精々、受験や就職試験くらいが、自分で能動的に関わるくらいだ。
レポートに有るように、「誰かに明確に呼ばれた事がない」というように、自分自身も「誰か」を明確に呼んだことがない、話したことがない、行動したことがないのだ。
しかし、それでも日常は支障なく過ぎていく。
精々、何かしらの愚痴や不満を、「その人」ではなく、空気のような人にぶちまけるだけだ。
では、それは「誰?」、自分だと思っている「自分は誰?」、自分の人生だとしているのは「誰?」

Follow me!