わたしを育てろ

「後ろ向きの相手を呼ぶのは、一度も伝わりませんでした。自分の意志と現実の差がとてつもなく有り過ぎて、意志ではなく、意図というか、思っているだけで、現実が全くなくて…」と綴るのは、「武禅」での一コマだ。
日常や社会では、ある意味で協調性重視の傾向がある。
しかも、訳の分からないまま流されている協調性だ。
もちろん、大きくは協調性が大事なことではある。
しかし、それは結果である。
何の結果かというと、協調性が育ってからの結果だ。
どうも日本はその辺りが、完全に間違っている。
例えば、「みんな仲良く」なる言葉がある。
それは仲良くできる能力が備われば、そうなるという結果論なのだが、その能力が備わる以前に、「みんな仲良く」と経文の如く環境から強制される。
みんな仲良くとはどういうことか?
そんな疑問も持たないまま、意味もなく訳も分からず、みんな仲良く右え倣えになる。
では、「わたし」という私は、何時育てるのか?
そういった「わたし」が育つから、そして仲良くしなければならない意味を、自分の力で理解出来た時「仲良く」を体現出来るようになっているのだ。
「みんな」というのも同じだ。
個人を確立させ、その個人が多数になった時「みんな」であって、単に数が多い「みんな」ではない。
それが正しいのか間違っているのかではない。
ということを考えられる「わたし」だから、そうでは無い意見を考える事が出来るのだ。
その「わたし」を育てられるのは、私でしかないのだ。
私を育てるのは「どうして?」しかない。

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