誰が生み出した?
介護士という職業につき数ヶ月。
福祉の大学、あるいは専門学校を出て数ヶ月ということだ。
先日の特養の研修には、そういった若者も受講していた。
その若者を見ていて、以前は学校というのは一体何を教えているのか、と思っていたのだが、それ以前に、「仕事とは何か」あるいは、「自分は何をしようとしているのか」というような自覚の無さに驚く外はない。
また、それ以前に、コミュケーション能力という、横文字でオブラートに包んだ曖昧なものではなく、他人と言葉を交わす、目上の人と言葉を交わす。
そういった普通の事が出来ていないことにも驚く。
だから、くだらない新入社員の研修が必要になる。
こんなバカげた話はない。
新入社員の研修があったとしても、それは幼稚園児や小学生の頃の躾のやり直しではなく、その職場にとってのルールや内容を指導するものだ。
先日の特養研修には、モンゴルの青年も混じっていた。
日本に留学しそこからの仕事だ。
言葉は研修に集まった日本の若者よりも確かな日本語だ。
もちろん、理解力も相当優れている。
何よりも、一つの実技に対して向き合う姿勢が違う。
当然、その実技に対しての洞察力がある。
「ある」と書いたのは、日本の若者には「無い」ということだ。
無いというのは、一つの実技は、「目先の一つの実技」であって、それはどんな主旨で行っているのか、どんな意味を持つのか、どんな広がりや奥行きを持つのかを考えるという作業が無いということだ。
その作業から得た結果が正しいのか間違っているのかではなく、作業そのものが無いということだ。
自分自身の仕事、職業という立場や視点から、そのものに取り組んではいないのだ。
つまり、仕事に対する自覚を持っていないということだ。
多分「思っている」だけだろう。
そういった若者を見ていて、「一体学校では何を指導しているのか」となるのだ。
モンゴルの青年は、その実技に対して、そしてそれの第一段階を成功させた事に感動していた。
その感動は、先程の洞察力から得た結果を持っているからだ。
日本の若者は、一回挑戦したきり、ボーッと突っ立っているだけだ。
そうできるモンゴルの青年が、特別優秀だとは思わない。
私の知る限り世界では普通のことだ。
モンゴルの青年は、モンゴル人として誇りを持っている。
モンゴル自治区に住んでいるから、政治的環境は悪い。
そういった事に対する意見もしっかりと持っている。
日本人は素晴らしいというステレオタイプの言葉の中には、未来を担うはずのこういった若者の姿もあるのだ。
誰が、こんな若者を生み出しているのだ?