美は細部に宿る
昨夜、ほんとに久しぶりに武神館初見宗家にお会いしにいった。
何よりも、お元気な姿を見られて良かった。
来月86歳だと笑っておられた。
「先生、お元気で良かったです」「いえいえ、中身は老いてますよ」と、何時もの笑顔にお会い出来た。
稽古を見ていて感じたのは、ますます分からなくなっているということだ。
もちろん、これは一般的な話だ。
稽古を終え、ご自宅に招かれ宗家が描く色々な絵を見せて頂いた。
それを見ていて、「やっぱりな」と思ったのが、宗家の体内に潜むセンスが、あの動き全体であり、その末端の指先になっていることだ。
もちろん、それは宗家に限らず全ての人も同じだ。
どんな日常なのか、どんな趣向を持っているのか、全ての自分の表れの一つとしての、一つの行為として現れているのだからだ。
美は細部に宿るというが、正にそれだ。
「年老いて行くほどに、人は鋭く美しなる」筈だ。
と、37.8年前に直感した。それの一つの姿が、舞踊の名人だったり、日本の芸事の名人たち、いわゆる匠と呼ばれる人達に見た。
もちろん、初見宗家はそれである。
人そのものが年と共に習熟していくのだから、そうなって当たり前なのだ。
もし、そうならないとしたら、それはその人の持つ価値観や美意識が、それではないのだ。
もしかしたら10年ぶり位かもしれないが、初見先生から一手、手合わせをして頂いた。
「科学で分かるはずもないでしょう」これは、宗家との共通認識である。
日本語で言えるとしたら、気配がますます消えているということ。
道場には、何時ものことながら外国の人が溢れていた。
若い外国人が、宗家に「お願いします」とやってきた。
宗家は丁寧に「こうだろう」と言いながら体術をかけていく。
若い外国人は「はい」と言いながら崩れる。
しかし、その崩れ方を見ていて、思わず「お前何考えているんや」と言いたかったが、それを飲んだ。
それを言うと、多分本にして数冊分の説明がいるからだ。
一言で言えば、その道から行けば、つまり、転がされたこと、手がどう動いたのか、ということ。そういった肉体の運動と、相手をやつけたい、という欲求しか無いレベルには、絶対に手が触れることが出来ないし、宗家の「今」を理解することは出来ないということだ。
「身体の使い方」と一口で言うが、それはその人の持つ「目的」が規定するのだ。
それは、「身体」とは、自分自身そのものだからだ。
決して「動いている」事が身体運動ではないのだ。
東京ワークショップは、明後日から始まる。
そういった根本的なことを知って欲しいのだ。
東京ワークショップ 11月21日‐24日
http://hinobudo.wixsite.com/workshop