道だからこそ循環する

昨日のPete師範との会話を思い出し、あれっ、と気付いた事がある。
「武道」の話をしていたことだ。
大概の場合、技術の話に終止する。
いわゆる「どうすれば力がいるとか要らない」の話だ。
もちろん、そういった話や、一寸した動きを見せたが、その根拠としての「武道とは」という話が出来たことだ。
具体的には、スポーツと武道の違いという話が、噛み合っていたということでもある。
こういった話は、日本の武道関係者とは皆無だ。
外国、特にフランスでは、そういった話が出来る。
それは、日本の文化そのものに興味を持っている人が多いからだ。
また、フォーサイスカンパニーのダンサー達も同様だった。
だから、現在世界各地で活躍するダンサー達が「日野のメソッドは、本当に役に立つよ」と推薦し続けてくれている。
だから、唐突に「日野、○○の日程はどうなっている?」とオファーが舞い込んでくるのだ。
そういった外国の人達が理解してくれていたり、役に立ててくれているのは本当に嬉しい。
私は「武道」を文化として捉え、そこからその根拠となるべき、歴史の底辺に流れるものを探り出していった。
ここが曖昧だと、武道の実体というものの基底となるものが見えてこないからだ。
そこから、「であれば身体操作はこうでなければならない」というものを導き出したのだ。
ここからが面白いもので、導き出された身体操作を実体化されるに連れ、その身体操作から深い考え方のヒントを得ていることだ。
そして、ヒントからまた身体操作の精度が高まるのだ。
つまり、それらは循環しているということだ。
こういった作業を行っている、ということが「道」なのだろうと思う。
だから、永久に「これで良い」という事が無いのだ。

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