からだの反応を見た

急いで道場修理に熊野に戻った。
多分、今月半ばくらいで作業は出来なくなるからだ。
なにしろ屋根の上は吹きっさらしで、体感温度が相当下がる。
道場を建てている最中は、そんな氷点下の冬でも作業はやっていたが…。
先日、久しぶりに競輪選手の彼と会った。
彼のお父さんが二階から落ちて骨折したそうだ。
お父さんから助けの電話が入ったので、彼は様子を見に行った。
まだ作業着のままの姿だったので、その作業着を脱がすことにした。
「これは痛い?これではどう?」
彼は、慎重にお父さんの身体の反応を見ながら、つなぎの作業着を脱がした。
同時に、背骨のこの辺りが折れている、ということも発見している。
ここで彼の的確な作業が分かる。
お父さんの反応ではなく、身体の反応を観察したことだ。
例えば、お父さんが「痛い」と言ったら、誰もが「痛いのだろう」と思ってしまう。
しかし、その時に、私なら、身体の反応がそれほどでもなければ「オーバーな」と「痛い」という訴えを軽く聞き流す。
この場合は、骨が折れているから当然痛い。
しかし、それに便乗して、意識の方が「痛い」を作り出すのだ。
皆には、よく話す事で、その昔尖った石の先で、足を切った時の話だ。
作業の為に履いていた長靴が破れ、底には相当血が溜まっていた。
余りの痛さに、仲間二人の肩を借りなければ歩けなかった。
しかし、数歩歩いた時に気が付いた。
「痛いのは切った部位だけだ」と。
では何故歩けないのか。
それは、痛いに支配されているからだと気付いたのだ。
それからは、もちろん足をかばってはいるが、別段普通に近い状態で歩いた。
そんな体験があるから、知らず知らずの内に意識に支配されている事がある、ということに気付いていったのだ。
いわゆる、固定観念のことだ。
その意味で、どこからどこまでが自分なのかは分からないのだ。

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