見る側か、見せる側か、それは全く別物だ

以前、劇団維新派の主宰者故松本雄吉さんとの会話で「アキラは、シュールリアリストやからな」と言われたと書いた。
そうなのだ。
私はとことん具体を求めている。
それが性分だから仕方が無い。
幻想を排除するのが好きなのだ。
それは、「ほんまか?」という根っからの疑問符を持っているからだ。
本当にそうなのか?
ここを突き詰めるのは楽しい。
というのは、形容詞や幻想や妄想、あるいは迷信と、実際とを完全に区別出来るようになるからだ。
そして、何よりも「自分が出来るようになるには」を実現させられるからだ。
例えば、自転車に乗れない人であれば、どうすれば乗れるようになるのかをとことん追求する。
そうすれば、乗れるようになる。
当たり前の事だ。
これは、自分が取り組む時、知らず知らずの内に脳に取り込まれている、幻想や妄想に気付く手立てになる。
とことん具体的でなければ、自転車に乗れるようにはならない。
また、体操の世界チャンピオン、内村選手が「美しい体操を」と言っている。
この場合の「美しい」は幻想でも妄想でもない。
というのは、体操という具体的な身体運動が有り、その身体運動の出来栄えを、内村選手自身が認識しているからだ。
だから、その身体運動という具体に取り組むことが「美しい」を実現させるのだ。
この場合、「美しい」という美意識を身体を通して認識しているということだ。
だから、抽象でも無いし、妄想でもないのだ。
こんな考え方は、見せる側、あるいは実現する側の人間と、見る側や楽しむ側の人間との違いだ。
見る側に回った時、内村選手の演技に驚嘆し、その美しさに感動する。
あるいは、素晴らしい舞台を見て、自分の中にあるイメージや記憶を重ね合わせ楽しむ。
舞台に夢を見るのだ。
つまり、見る側に回った時、演技や舞台から無条件で夢が伝わってこなければ駄目だということだ。
内村選手は、日々どれほどの訓練をしているのか、それは見る側だけの人からは想像を絶するものだ。
しかも、具体的な訓練だということは想像できる。
では、舞台はどうだろう。
ダンスにしろ演劇にしろ、そこから「夢」が見えるのか、というとそれは皆無だ。
その原因を探っていくと、ダンサーにしろ役者にしろ、演出家にしろ、それぞれが幻想を持ち、具体化の手立てが少ないからだ。
表現者は、どこまでいっても具体でなければ、何も訓練出来ない。
どちらのジャンルにも、多くの技術や教則本がある。
もちろん、「何じゃこれ」という程度の低いものも沢山ある。
それこそ「何をしても良い」に代表されるメソッドがそれだ。
何をしても良いのなら、どうしてワークショップを開く必要があるのだろう。
それは口頭でそのことを言えばすむだろうに。
役者であれば、そこに状況が浮かぶようにして欲しい。
物語があり、役があり、そして台詞があるから、それにおんぶに抱っこではないのか。
もちろん、現在成立しているものが悪いのではない。
それはそれを楽しむ観客がいる限り、それで良いのだ。
しかし、そのことと自分の実力をつけていく事は全く別物だ。
来年2月にスイス・バゼルで、ダンスの振り付け協会から、ワークショップ開講の招聘があった。
ジュネーブでも、著名な振付家からの招聘があり、続けて行く。
アメリカの有名大学からもある。
アメリカは医療関係者へのワークショップも打診されている。
私の何が支持されているのかは分からないし興味もない。
ただ、ここで書いているような事を、海外でも実際に話しているだけ。
そして見せるだけだ。
そんな中で、素早い反応をするのが日本よりも海外が圧倒的に多いのだ。
それが分からない。
でも、それが私の現実なのだろうと解釈する。
出版記念トークライブショー11月12日(土)午後2時~4時
http://2016hino.jimdo.com/
東京ワークショップ 11月21日‐24日
http://hinobudo.wixsite.com/workshop
98回武禅のレポートをアップしました。

https://www.hino-budo.com/buzen5.html

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