頭のクセがバリヤーになる

実は単純な事でも、自分の頭を通すと飛んでもなく複雑で、難しいものになったりする。
もちろん、その逆もある。
そのように物事を変更してしまうのが、それぞれの人のクセだ。
そのクセを治すには、クセを知る必要がある。
自分を客観視する必要があるということだ。
「武禅」で、ワークに取り組んでいる姿勢を見ていると、そういった事がよく見える。
「声を届かせる」とした時、相手という対象、届かせたいという意志や気持ち、それの大小、又は強弱で決まる。
しかし、発声の方に意識が向く人もいる。
それこそ腹から声が出ていないから届かない、というような事だ。
声楽家のように、腹から声が出る事と、声が届くのは全く別物だ。
とはいうものの、ここは現象や状態でしか分からない範疇だ。
しかし、体感できる人には体感できる。
その逆の体感できない人には出来ないし、それは頭のクセがそうさせているとしか言いようが無いのだ。
例えていうならば、テレビから流れて来る音声と、意志を持つ人の生の声との違いだ。
昔、ある有名な人の講演会を聴きに行った。
その人は、開口一番「マイクで変換されたものは声ではなく音なので、マイクを使わない」と、おっしゃった。
それを聞いて「同じことを考えている人がいるものだ」と喜んだ。
しかし、実際にその人が話をしだした時、「おっちゃん、マイクを使わないのは分かったけど、使うのとどう違うの?」と感じた。
つまり、マイクを通さない生の声だから何かが違うのかというと、何も違わなかったということだ。
しかし、その人の頭の中では、違っていたのかもしれない。
その人はお亡くなりになっているが、言葉が巧実で素晴らしい文章を書いていた。
言葉が巧実だから、書かれた文章を体現出来ていると思っていたのだろう。
そして、取り巻きでその事に気付いた人は皆無だったのだろう。
人は、そういう具合に、往々にして他人によっても勘違いさせられることも起こるのだ。
もちろん、その「マイクを使わない」というのは、もしかしたらハッタリだったのかもしれない。
この「声が届かない」を発声の側に行くのと、ダンスで運動の側に行くのは同じだ。
もちろん、武道でも運動側に行くのも同じだ。
やっかいなのは、それぞれにその要素を含んでいる事だ。
声をだすな、という。
声を出してしまえば、出し慣れた「声」しかでない。
動くなという。動いてしまうと、動き慣れた動きしか出てこないからだ。
「わたし」が出てこないのだ。
だから届かないのだ。
「わたし」がなければ「あなた」も無いのだ。
当然、届くも何もない。
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98回武禅のレポートをアップしました。

https://www.hino-budo.com/buzen5.html

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