言葉は灯台にすぎないのに
私の教室やワークショップ、そして「武禅」では、感じたことを言い合う、という形式を取る。
では、感じたことなら何を言っても良いのか?というとそうではない。
そこで提示されているテーマに従って、という暗黙のルールがある。
その暗黙のルールを探り出すのも訓練だ。
これが出来なければ、それこそ「場違い」な意見を出すということになり、組んでいる相手やグループを混乱させることになる。
もちろん、組んでいる人やグループは、その事に気付くということも訓練だ。
そこで長々と持論を展開している人を見かける。
また、それを聞く人もいる。
しかし、いくら論を展開できても「出来る」ことではない。
もしも、論で出来る様になるのなら、私は喋り続けるだろうし、私は誰かの論を聴き続けたことになる筈だ。
「言葉は常に灯台」というのが、言葉に対する私の見解だ。
灯台を見つける力、次の灯台を見つける力、全ては自分にかかっているのだ。
昨日、ある分野での日本の第一人者の方と飲んだ。
そういった人の話は簡潔だ。
しかも分かりやすい。
どうして簡潔で分かりやすいのかというと、説明が無いからだ。
つまり、何を話したいかが明確だからだ。
長々とワーク中に話す人は、隣の組みの人と比べると、圧倒的にワークに取り組んでいる時間が短い。
当然、話す人聞く人共にである。
自分が取り組んで、そこから発見していく、あるいは気付いていくという訓練が出来ないということだ。
私はそういう人達に注意をしない。
それは、大人だと認めているからだ。
それこそ自己責任で、そのワークの時間を放棄しているのだからだ。
感じたことを言い合うのは難しい。
そのものの難しさもあるが、「正しいことを言おう」とか「間違わないように言おう」という意識が働くからだ。
今回の「武禅」のレポートにもそれがあった。
「ジャッジ側になると、未だにスキッ!とジャッジ仕切れなく迷いがある。その自分にもどかしさを感じた。と書いていて、あっそうか!正しさを求めていたんだ!ということに気付いた」だ。
出版記念トークライブショー11月12日(土)午後2時~4時
http://2016hino.jimdo.com/
東京ワークショップ 11月21日‐24日
http://hinobudo.wixsite.com/workshop
98回武禅のレポートをアップしました。
https://www.hino-budo.com/buzen5.html