言葉としての自己表現

東京で初の台風体験だった。
おかげで飛行機は飛ばなかったので、今日熊野に帰り早速修理だ。
オリンピックは終わった。
女子卓球の伊藤美誠選手は15歳だ。
試合後のインタビューでのコメントが、どこが15歳?というくらい明確だったのには驚いた。
それは、今回のオリンピックの一つの特徴ではないかと思う。
つまり、若い選手たちが「自分」を、そして「やっていること」に対して、非常に明確になっているということだ。
そして、きっと言葉としての「表現の仕方」を教育されているのだろう。
もちろん、オリンピックに出る、そしてメダルを獲るという若者だから、明確、明晰で無い訳はない。
勝敗のある競技だけに、感情に流される場面もあったが、それでも「何を言わなければならないか」に焦点を当てていたのにも、驚く外はなかった。
目的を持ち切磋琢磨する、子供の頃からのその姿勢が、そういったこころの強さを育んで来たのだと、容易に想像がつく。
もちろん、彼ら彼女達は特殊だと言えば特殊だ。
しかし、日常を平凡に過ごす私達と、目的の方向が異なるだけで同じだとも言える。
話すという事で言えば、外国の若者たちはその事を心得ている。
以前、イタリアでダンスのワークショップ・フェスティバルに招聘された時、ダンス学校の生徒たちと事前ミーティングがあった。
そこで、講師側から生徒たちに質問をする、というコーナーがあった。
私は生徒達に「どうしてダンスを選んだのか」と質問すると、当てられた生徒はとうとうと自分の意見を述べたのに驚いた事がある。
また、先日、オランダでクラシックバレエのオープンクラスの時も、若い女性が人生を述べたのにも驚かされた。
言葉としての自己表現という事が、殆どの外国では当たり前の事なのだ。
どれだけ美しい言葉を使えるか、どれだけユーモアを盛り込めるか、そんなことを子供の頃から教育されているのだ。
そんな処から見ても、今回のオリンピックで活躍した日本人選手は、それこそ世界と並んでもメダル如く、全く引けをとらないばかりか、超えているのを実感した。
もちろん、私は残念ながらそれは出来ない。
そうするように心がけてはいるが、やっぱり「ちゃうやんけ」になってしまう。
よい年をして情けない限りだ。
と、時々思う。
「ちゃうで」が標準語のワークショップは、22.23.24.25日です。
https://www.hino-budo.com/workshop-schedule1.html

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