人には時期がある
例えば、バレエのある形を作ろうとする。
もちろん、見様見真似というレベルだ。
それは、何となく形になる人は沢山いると思う。
では、2秒くらいの動きになるとどうだろう。
そうなると、今度は殆どの人は出来なくなる。
それは、動いている状態の自分の姿を知らないからだ。
静止なら、何とか自分の姿を知ってはいても、動いているというのはまず知らない。
人は、知らない事は出来ない。
だから、知れば出来る、ということになる。
出来ないと悩むのではなく、知れば良いだけなのだ。
これは、どんなことでも共通する。
もちろん、仕事も同じだ。
その意味で、自分の「出来ない」は何なのかを知る必要があるのだ。
もしも、知らないから出来ないのであれば、知れば良いだけだからだ。
その次のステップが、知っているが出来ない場合だ。
それは、ざっくりと知った、という状態から、「何が・どこが」という細部を観察する力が必要になる。
しかし、その観察力は、自分が必要だと気付かなければ、観察する力は付かない。
人から言われて、あるいは、マニュアルを知って、という場合は、殆どその力を養えない。
何にしても大事なのは、自分の欲求であり要求だ。
保険的ものの考え方で、何かに取り組んでもさほど効果は無い。
例えば、「武禅」や「ワークショップ」で、何かのアドバイスをする。
そうすると、取り組み方の変わる人と、変わらない人とに分かれる。
変わらない人は、自分ではそのアドバイスの必要性を感じていないのだ。
根本的には、自分自身がどうしてもこうしたい、とか、こうなりたい、という欲求も要求も無いのだ。
しかし、世の中には情報が溢れているので、保険的な意味合いで求めているだけである。
あるいは、保険的意味合いもなく、もっと単純に、仕事で「君は仕事が遅い」と言われ「私は仕事が遅いのだ」と思い込んでしまっているように、自分を検証せずに他人の言葉を鵜呑みにしている場合だ。
自分の中からの欲求が無いという事を知らないのだ。
その場合は、「何が・どこが」というような微細な観察力は身に付かない。
当然、自分を底上げすることは出来ない。
逆に言えば、まだ底上げする時期ではない、底上げする必然性が無いということである。
そのままの自分で良いのだ。
そのままの自分でいて、何かしらのアクシデントに見舞われた時、きっと「こうなりたい・こうしたい」と心から湧き上がって来る筈だ。
その時が、自分にとっての時期なのだ。
だから、その時に「知れば」一気に底上げされるのだ。
人によって、時期は様々だ。
だから、皆一緒になど有り得ないし、やみくもに学んでも余り意味が無いのだ。
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