間口の広さ故のむつかしさ
フランス人、ベルギー人他の人達からの質問に答えていると、逆に「あなた達はどうして日本の武道をやっているのか?」と質問をしたくなった。
それは、それぞれの人が稽古の一つに対して、例えば「これは中国の拳法に似ているけど、それも研究したのか?」というような質問があったからだ。
つまり、稽古をしているが、それはどんな意味を持っているのか、ということと、取り組む側が「こんな意味だろう」と解釈して取り組む、つまり、ここに溝があるからだ。
これは、外国で指導することになり、顕著に見えて来たものだ。
取り組む側の自由、という考え方もあり、それはそれで間違ってはいない。
しかし、こちらとしてはこうだ、という事もあり、それも間違ってはいない。
その意味で、多分ここにある溝は決して埋まることはないのだろうとも思う。
それは、武道といっても現代においては、果てしなく趣味に近い代物だからだ。
私としては、取り組んで欲しい姿勢はあるが、それを強制したくはないし出来ない。
しても意味があるとは思えないからだ。
それは何れにしても、取り組む側の姿勢の問題、価値観の持ち方の問題があるからだ。
だから、外国では指導という言葉は使わない。
あくまでも「伝える」に徹している。
それは、日本でも同じで、色々な考え方があり、また、考え方のレベルもまちまちだ。
例えば、12歳でクラシック・バレエをやっている子が習うのと、40歳で空手を30年やっている人が取り組むのとでは、何もかもが違う。
また、同じ12歳のバレエの子と、40歳のバレエの先生では、全く受け取り方が異なる。
もちろん、バレエの先生の方が、取り組んでいる事の価値を見出す。
今回の質問で「日野はフランスで教えていて、習っている人に何を望んでいるのか」とあった。
「自分の人生で何か役立ててくれたら嬉しい」と答えた。
逆に言えば、それだけの間口を持っているが故に悩むことでもある。