フレーズを並べるな

ダンスにしろジャズにしろ、武道にしろ、フレーズを覚えたら「それ」になるのではない。
とはいうものの、巷にはそういったフレーズのオンパレードだ。
それはコンピューターが発する音声と同じで、言葉そのものには意味があっても、情熱も内なる叫びも無い無味乾燥なものだ。
もちろん、無味乾燥だからBGMにはなるが。
情熱も叫びも無いというのは、その人、個人が無い、個人が見えないということだ。
無味乾燥というのは、一般化されたものという意味にもなる。
しかし、その人が演奏しているから、その人が踊っているから、その人個人ではないかと反論があるだろう。
しかし、その人でなければならない理由など、観客からすれば無いのだ。
どこにでも転がっているフレーズなのだから。
簡単に云えば、首の挿げ替えがきくということだ。
それは仕事でも同じだ。
「私でなければならない理由」を持つ人以外は、誰であってもその仕事は出来るということだ。
そんなことは、少し想像力を働かせば分かることだ。
例えば、自分が交通事故に遭ったとしよう。
そして運悪く絶命したとしよう。
そうすると、もしも会社であれば、直ぐに誰かが替わりに仕事を引き継ぐだろう。
そして、3ヶ月もすれば忘れられた存在になるだろう。
それは、ダンスでも音楽でも同じだ。
それが一般化された個人ということだ。
どうして人は「誰かのフレーズ」を使うのだろう。
フレーズと云えば分かり難くなるから、言葉と置き換えても良い。
言葉そのものは一般化されたものだ。
だから共有出来ている。
しかし、その言葉を自分の人生として使ったら、個人のものになる。
意味だけで使っているのであれば、無味乾燥なものになる。
いわゆる、気持ちの通じない人なのだ。
自分の人生とは無関係な、無駄な言葉を沢山話す人と同じだ。
分かった風な言葉を並べる人だ。
ここのところを、もっとちゃんと言語化したいのだが、それこそ適切な言葉が見当たらないのだ。

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