一寸混乱中
昨日は、借り物の軽自動車で大阪へでた。
さすが軽。
今までより30分は余計に時間がかかった。
歯科医に行き、大阪教室での稽古だ。
人との距離感が違う。
距離感という具体的な距離は、実は意識との兼ね合いで生まれる。
意識が気持ちを誘導しているのか、気持ちが意識を誘導しているのか。
あるいは、意識の中に気持ちがあるのか分からないが、意識の現れが身体運動でなければ、そこにも距離が見えてしまう。
いわゆる「腰が引けた」という状態になるのだ。
この原因は、気持ちや意識が身体を誘導していないことだ。
気持ちや意識が別のところに向かってあり、運動だけがそこにあるからだ。
これは舞台でも同じだ。
芝居でもダンスでも同じだ。
芝居の場合は、物語があったりセリフがある。
ダンスの場合は振り付けがあったり無かったりだが、複数のダンサーがあり、それらが踊る。
それらが「一体何をしているのだろう」と思ってしまうのは、その場に「各自の思い込み」はあっても、有機的な繋がりや関係性が皆無だからだ。
それを物語や振り付けがカバーしているだけだ。
約束組手があり、それを二人が行う。芝居でもあるし、振り付けでもある。
また音楽でもある。
ただ違うのは、出した手が相手に「作用する手」でなければいけない事だ。
物理的に作用するであろう手ではなく、確かに作用する手だ。
逆にいうと、受けて側が「危ない」と直感する事だ。
相手が直感してしまう事が繋がりや関係性の突破口だとも言えるのだ。