混じり合う意識こそ美であり関係だ
沢を上ると、ホースが抜けていた。
抜けたホースから問題なく水が溢れていた。
ここで接続すれば良いのだが、水圧はなめたものではない。
ホースに溜まっている空気圧と、その水圧が押し返して来るので、残念ながらここで接続させることは出来ないのだ。
原因を見つけ、結局水源地まで沢登り。
「武禅」の為に、水源地を整備し、多少の豪雨にも耐えられるようにした。
ホースからもたらされる水は、タンクに溜められるが、溢れる水は谷に流しっぱなしだ。
その水が止まっている時、そこの空間は、まるで時間が止まったかのような空間になる。
凍てついた空間のようなのだ。
これを何時も不思議に思っている。
たかがオーバーフローした水が滴り落ちているだけだが、それが空間に生気を感じさせているのだから。
これは集中した状態にかなり似ている。
雑念が無く、そのことだけに意識が向いている時、こういった止まってしまった時間のようになる。
その意味で、雑念と雑音は似ているような気がする。
もちろん、この「雑」は色々なという意味だ。
「武禅」で、受講者が一斉に向かい合いを始めると、その止まってしまった時間が起こる。
それは「明鏡塾」でも同じだ。
その時、その状況、その空間は、恐ろしいほど美しい空間になる。
ふとそれは、日本庭園の美と同一のものかもしれないとも思う。
竜安寺の石庭は、そのままで時間空間を止めている。
しかし、何かは確かに息づいている。
その美は、混ざり合った意識というものの一つの現れなのかもしれない。
そして、その混じり合った意識は、間違いなく関係性そのものの現れでもあるのだ。