思う、という層構造が見えない
道場の水は止まっていた。
道路沿いを調べたが、その原因は無かった。
ということは、明日は沢登りだ。
まず、水の確保だ。
それが済めば修理に入るが「武禅」の準備もある。
武道には「入り身」という言葉がある。
その実際的な意味は色々な武道で異なる。
私は「相手の意識と溶解する事」と捉えている。
それは武道に限らず、医療での患者さんとの関係も同じだ。
日常ということでは、少し難しい。
というのは、大方の人の意志はどの方向を向いているのか定かではないからだ。
つまり、条件として意思が相互に向き合っている、ということが必要なのだ。
「武禅」では、正面向かい合いという言葉を使っているが、それはこの入り身と同じ意味を持っている。
意志が離れている、交わろうとしていない、そういった、人間関係の基本を立て直す稽古だ。
こういった事を書いていて、いつもつまづく箇所がある。
それは「思う」という作業の事だ。
これは一体どういう意味を持っているのか、そして、「本当に」というのとの違いを明確にするには、どんな言葉が良いのか。
もちろん、「本気」という言葉も使えるが「本気だと思う」という重なりが「思う」にはあるからだ。
その意味で「思っていることは実現しないし、何の意味もない」と何時も言う。
その事と、実現する「思う」との線引きはどこでするのか。
そんなつまづきが40年はある。
どんなことでも、できるだけ明確化したいと「思っている」のだが、人間には闇が多すぎて難し過ぎる。
もちろん、心理学では色々と解説してくれていることがあるが、解説しているだけで実体はまるで掴めない。
だから、全く意味をなさないのだ。
今回の「武禅」は、臨床心理士の人も来る。
しかし、噛み合う事は無い。
そこも不思議の一つなのだが。