忘れる大事さ
身体のトレーニングをどう捉えるのかと問えば、色々な答えがあるだろう。
武道の場合は、それを忘れる為に有る。
もちろん、スポーツでも同じだ。
徹底的に身体に馴染ませ、その後忘れるのだ。
この「忘れる」という作業が相当大事だ。
もちろん、身体に馴染んでいないのに忘れるのとは違う。
覚える→忘れる、ということの繰り返しが大事で、そうすることで、それこそ自然と身体に馴染んでいくからだ。
手先から力を出すために、全身の連動やストレッチ、そして感覚だ重要な要素になる。
それを訓練することで、身体にその痕跡が残る。
私はそれを「感覚の残像作用」と呼んでいる。
その残像作用を使えた時に、手先から力が出るのだ。
だから忘れなければいけないのだ。
逆に言うと、目的を即座に変えるということでもある。
覚える為に、身体部位を感覚していく。
それは身体部位を感覚するという事が目的ではあるが、実はその先に「手先から力を出す」があり、またその先には「武道の身体として」がある。
その先にあることを一つのテーマとして取り組むのが稽古だ。
だから、そのテーマを即座に変えるということが大事なのだ。
手先から力を出す、という実際の稽古をしているのに、自分は身体の部位を感覚する、という稽古をしていては、手先から力はでない。
武道の身体としての稽古をしている時に、身体部位の稽古や手先の稽古をしていては、武道としての身体の稽古にはならない。
そういった取り組み方が、大きな意味での稽古なのだ。
何の稽古になっているのかというと、意識というものを変化させる、つまり、変化に即応させる意識作りということだ。
先程の、身体部位の感覚、そして手先から力をだす。
その先の武道の身体という枠は、意識として繋がっているだけで、実際には繋がってはいない。
しかし、意識を使っての繋がりが、色々なことの接着剤なのだ。
その意味で、言葉も考え方も大事なのだ。
言葉も考え方も感覚された言語も、全て意識の一部だからだ。
だから、言葉を間違えば繋がりが無くなるし、考え方を間違えば何も実現しないのだ。