何がどう出来ているのかを整理
愚息を見ていても、他の若い人達を見ていても「違うな」と感じるのは、フットワークの軽さだ。
それは本当に素晴らしいことだと思う。
しかし、余りにも軽すぎて「大丈夫か?」とも思う。
その大丈夫か?は、「何が得るべきものがあるのか、得ることの出来る自分は育っているのか?」という心配だ。
もちろん、体験することでそれらのことを発見したり、気付いたりできる。
それはそれで良し、というのもある。
20年ほど前、大阪教室には若く意気の良い青年たちがいた。
学ぼうと言う気持ちもあり、努力もする良い感じの青年たちだった。
しかし、余りにも視野が狭いので、一度外国にでも行って見聞を広めて来いと行った。
一人の青年が「分かりました」と行って、直ぐにヨーロッパ旅行に旅だった。
これなど相当フットワークが軽い典型だ。
学校があるので10日間か2週間くらいの旅だった。
行った先々で何をしていたのかを聞くと、やることが無いから、一人で練習をしていたという。
こんな事もあるから心配するのだ。
例えば、その青年は武道に興味があり、そのことを体現したいから指示された練習も、誰よりもやっていた。
だから、誰よりも身体は動くし、技の仕組みなどを理解していた。
つまり、武道の実際に関しては、相当習熟されていたのだ。
だから、私が他の場所へ行く時など、よく連れて行ったものだ。
後から考えると、その青年は「何をやろうとして、何をしたのか、そして何がどうできていたのか」という、自分自身そのものを全く整理していなかったと解った。
もしも、そういった事を整理していたとしたら、「何かをやろうとしたら、こうすればよい」という、その青年自身の一つの雛形が出来ていたのだ。
雛形があれば、それを「何か」に当てはめれば良いだけだ。
そうすると、その海外旅行も、「何もやることがないので」には、ならなかったのだ。
得る為の何かは育っていたのだから。