的確な指示の出来ない人は、自分を評価していない人だ
「身体に対する的確な指示」は、身体能力の特別高い人であれば、無意識的に行っている場合がある。
また、この「どうすれば良いのか」を飛ばしている人もいる。
それはミラーニューロンをそのまま発動させている場合だ。
つまり、「見たまま」で一切の判断を介在させずに、行為を行っているということだ。
このやり方は、伝統芸能でみられる「見取り稽古」だ。
判断を働かせられない幼児の頃から、素晴らしい芸に触れさせるやり方だ。
そして、身体能力の特別高い人を除いた時、この身体に対する的確な指示という方法が役立つのだ。
もちろん、この場合でも先程の見取り稽古的訓練も必要だ。
この見取り稽古的訓練が、全体像のニュアンスを与えてくれるからだ。
教室やワークショップを見ていると、それ以外の人、つまり、やろうとしている事を「出来ないように」している人の方が圧倒的に多いことに気付く。
もちろん、そんなことは有り得ない筈だ。
出来るようになりたい筈なのに、自分で出来ないようにしているのだから。
それは、こういった「どうすればいいのか」も「見たまま」も考えない、あるいは知らない人だ。
そういう人を見ていると、仕事であれ日常であれ、自然成長的に成長した能力でしか生きていないのだと想像できる。
つまり、何の工夫もなく、あるいは、工夫をしていても無意識的な状態なので、自分が工夫をした、ということさえ忘れ日々送っているということだ。
「どうすれば」というのは、自分の力そのものだ。
それを認めない「自分って一体何だ?」そう思わずにいられない。
もっと言えば、自分に降り掛かった問題を解決しているだろうに、どういう手順で、あるいは、どういう段取りで解決したかを整理していないから、自分自身に蓄積しないのだ。
それを「自分を放ったらかしている」というのだ。
だから、「的確な指示」を出すことが出来ない→やろうとしている事が出来ない→自分が壊している、になるのだ。
その裏にあるのは、「◯◯しよう」という言葉だけが、頭の中を回っているということだ。
生きているのは間違いなく「自分」だ。
だから、もっともっと自分を大事にしよう。
もちろん「大事にしよう」と思うことではない。