自分の中には
「何を努力してよいのか分からない」というのは、主語が「自分」だ。
ここで人の能力の一つである、客観性という切り札を使う。
「自分が『自分に』何を求めるか」だ。
「お前なら、これは出来るだろう」というような自問だ。
記憶を辿ると、それらは子供の夢想の延長なのではないかと思う。
「~ごっこ」だ。
私は中学の頃から使っていたように思う。
「私」だから、何を努力してよいのか分からないのだ。
この若者の事でいうと、主人はどうしているのか、先輩はどうしているのか、をとにかく観察することから始めることだろう。
あるいは、そこを完全に飛ばして、主人ならどうするだろう、先輩ならどうするだろう、になってもよい。
それは、そう意識することで、自分の記憶には無いことを思い出す可能性があるからだ。
結局、「私」が育っていないのだから仕方がないのだから、逆に「何を~分からない」と思うのが間違いだ。
と、自分自身を考えれば良いのだが、「~分からない」と言葉に出るのは、「言われた事をやっているのに」→「自分は出来るのに」と、暗黙の内に思い込んでいるからだ。
そこからは、自分は出来ない、だからどうしようか、に発展することはないのだ。
その意味で、ここからの脱出は想像以上に難しいのだ。
言われたことだけをやってきて、良い子を目指した人は、相当苦労をすると思う。
しかし、「自分は出来ないのだから」とか、見よう見真似が出来れば、苦労をせずにすむ。
そのこと自体は、どれもこれも単純で簡単なのだが、敵は自分の中にある、もう一人の自分だ。
やらない言い訳の達人が潜んでいるからだ。