過渡期が訪れた人は成功や実現が待っている
毎年の事だが年度末の日曜日は、「このくそ忙しい時に」という具合で、稽古は4人。
最後のクラスで1人増え5人。
ということで、ソフト木刀での打ち合い。横受け・掛け手という、空手の最高級難度的な捌きを稽古した。
https://www.youtube.com/watch?v=sMH0NOnQZJQ
この横受け・掛け手は、道場を始めた最初から教えていたが、連日全員がアカタンアオタンだったのを思い出す。
容赦なく、という稽古だったので、男性女性の変りなく行っていた。
しかし、形や形になるプロセスこそが技術だ。
技術であれば、男性と女性、大人と子供の別け隔てなく出来るはずだ。
そこを探求していったのだ。
しかし、それは理屈というもので、実際は弟子たち全員ボコボコになる。
それが刃物であれば、ボコボコではなく命はない。
では、何が間違っているのか。
あるいは、何が邪魔をしているのか。
それとも、技術にならない何かが抜けているのか。
そういった事がボコボコの稽古から、問題として見えて来たのだ。
「人」というものの何かが見えてきたのだ。
武道や武術に限らず、人には、こういった過渡期が必要なのだ。
それがあるから次に進めるのだと確信する。
御託を並べるだけで次に進めるのなら、これほど楽なことはない。
どんな人でも次に進んだ人は、その当時のレベル以上の汗や冷や汗をかいている筈だ。
ただ、次に進んでいるから、「別に苦労も努力もしていない。楽しかった」という言葉になっているだけだ。
大阪の道場を閉め、熊野で道場を建設しようとしてからは、愚息も加わりより研究に拍車がかかった。
大人と子供。誰が考えても、大人が強い。
でも技術であるなら、子供でも強い筈だ。
そんな中で、強いの間違い、関係性の発見。
相手を感じるという発見、そして何よりも自意識のレベルの発見があったのだ。
それは私にとって飛躍的な成長を促してくれた。
つまり、こうだと直感したことは、諦めずに取り組むことが実現に繋がるということだ。
直感、それは「ふと、湧き上がってくるもの」であって、判断ではない。
もちろん、単なる思い付きでもない。
思い付きはその場しのぎのことになるが、直感は最も本質に近い道、あるいは、本質そのものに辿り着くヒントになることだ。
しかし、これらは私が直接発見したものではない。
「後来習態の容形を除き、本来恒明の清体に復す」という言葉が教えてくれたものだ。
もちろん、この言葉が教えてくれる、あるいは、この言葉が稽古の本質、武道の本質だと直感したのは私だが。
その直感は、諦めずに取り組んでいたから湧き上がって来たのだ。
もちろん、その辺りの、鶏が先か卵が先かは分からないが。