出来る出来ないのレベル差

「ワークが出来る」事を目指す人が大半だ。
それは「出来る事」つまり、その場の結果だけを求めるという思考が身に付いてしまっているからだ。
例えば、老舗のお寿司屋さんに丁稚として入り、という日本的な修行法があるが、それは現代的ではないという意見が沢山出ている。
では、あの握り方は習えば1日で出来るのだろうか。
むろん、ある意味では出来るだろう。
しかし、その味は出ない。
ここが問題だ。
その「味」を分からない人間に取っては「出来た」になるのだ。
しかし、味を吟味できる人にとっては「なんじゃこれ」だ。
そこが日本の感性の豊かな所以である。
そこを譲る必要は全くない。
味蕾の少ない人間には分かる筈もないからだ。
何時も書くように、その場で「出来た」が終点なら、そんなものは習う必要も稽古をする必要もない。
既に出来ていることだからだ。
「武禅」のレポートでも「出来なかった」という言葉が散乱している。
「出来なかった」は、何を指しているのか自分では分かっているのだろうかと何時も思う。
「出来なかった→そのワークが」と、まるで小学生低学年のような思考しかないのには驚く。
そのワークの何が?と突っ込んでいくから、自分の何かの核が見えてくるのであって、例えば、「あなたは壁を作っている」と言われた時、「どうしてそう見えているのか」「一体何が原因なのだろう」と瞬時に頭を回転させない。
それよりも「壁を作っているのか」というところで堂々巡りをしているだけの人も多い。
今回受講した若い人たちは、驚くほど自分に気付く能力が高かった。
それは、問題意識が高いということだ。
それを知っただけでも、疲れが癒やされた。

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