言葉ではなく人を見ろよ

自分が感じていることを明確に言葉にする。
これは意外と難しい。
その一つに、これを言えば相手は傷つかないか、とか、悪いやつと思われないか、嫌われないか等々だったり、世間体も見栄も体裁もあるからだ。
ここを利用しているというか、全く理解していないというか、自分ならどうだろう、と考えられないか、という人達が沢山いる。
例えば、ダンサー達に質問をする。
「舞台を見て、感じたことを本当に言いますか?」
「いいえ」
なのだ。
もちろん、そこに友達付き合いも、仲間意識も色いろあるだろうが、その事が自分自身の感性を鈍らせている、という代償を払っているのを知らないからだ。
その事が口癖になった時、どんな舞台を見ても「良かったよ」になる。
一昔前、マルチ商法の会場へ誘われた事がある。
そこで展開している人達を見て、「どうしてこんな人相の人に、こんな笑顔の汚い人に騙されるのか」と思った。
どれだけ社会体験や、想像力が不足しているのか。
もちろん、会場では札束が飛ぶように人の手にわたっていた。
それに惑わされてしまうのだろう。
そんな人達を見て、本当に心配になったものだ。
それが年々増加しているのを感じる。
それは、大方は「何も見えていない」からだ。
自分自身の欲、あるいは、相手の言葉だけ意味だけを理解し、「その人」を見ていないのだ。
「顔を見たら分かるやろ」は死語化していっているのも感じる。
それでは、社会での体験は無いのか。というと、そんな馬鹿なことは無い。
誰一人の例外なく、社会で生きている。
しかも仕事をして、あるいはフリーターをして他と様々な形で社会生活を送っている。
そこから、社会に生きる人をどうして観察出来ないのか不思議でならない。
それこそがあらゆる意味での護身術であり、人を見分ける術だ。

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