自分の住む世界の狭さを知る

自分の目の前に現れていることは、そのまま現れたことだが、現れるまでに蓄積された努力や苦労が見える人と見えない人がいる。
見えない人は、自分のことすら分かっていない人だ。
自分のレベルを知っているのか?という問題を、常に自分は持っている。
それを分かっていることが、自分の成長や向上にとっての基礎だ。
もっと言えば、そのことが、ある種の社会性を備えているとも言える。
例えば野球をやっているとする。
町内野球のレベルなのか、リトルリーグレベルなのか、高校野球レベルなのか、社会人、プロ、大リーグれべるなのか、という自分のレベルの話だ。
ここで共通するのは「私は野球をやっています」という言葉だ。
しかし、ここで並べたように、れっきとしたレベル差は存在する。
また、同じ町内野球だとしても、町内野球の大会で常時優勝しているチームで4番を打っている打者と、一度も試合をしたことがないチームの4番打者では、試合度胸もここ一番の力強さも全く異なる。
試合をしたことが無いチームが、初めて大観衆の前で試合をすると仮定すると、実力も何も発揮できないままになるだろう。
もちろん、そうならない場合もあるが、それは本当に例外だ。
というように、同じ「私は野球をやっています」と言っても、そこには底知れないレベル差が明確に存在しているのだ。
しかし、それこそ井の中の蛙ではないが、自分の場が世界だと認識している人には、そのことが分からない。
もちろん、町内野球をしていても、プロ野球のことや大リーグの情報、そしてそこに所属する選手の情報を手に入れることは出来る。
それらの情報を集め、その選手たちの努力を知る事が出来る。
しかし、大方の町内野球レベルの人は、それをしない。
自分の住む世界が世界だと無意識的に思い、その小さな世界の価値観が、世界の価値観だと完全に誤解をしているのだ。
以前、音楽スタジオをやっていた時、高校生でかなりいけるジャズバンドがいた。
面白いので、京都のライブハウスに出演させようと思い、そのバンドに話をした。
京都でも指折りの老舗なので、皆嬉しくて舞い上がった。
で曲を選びライブに備えた。
でも、少し心配だったので、私と友人のギタリストでフォローすることにした。
ライブの日が近づいてくると、高校生らしくどんどん落ち着きが無くなり、口数も少なくなっていった。
そして当日、ボーカルの女の子は、緊張のあまり何度も吐いた。
他の連中も全てが上の空だった。
もちろん、それで良いのだ。
そして、それでなければ話にならないのだ。
その感性が有るか無いかが、他人事か自分の体験かという分水嶺なのだ。
演奏は、私達のサポートで無難に終えたが、それを機に2人は音楽を止めた。
「向いていない」と悟ったのだ。
こういったレベルの異なる本番体験を沢山持っている人が大リーガーだ。
高校生の仲間レベルのバンドが、京都の老舗のライブハウスという、いわゆる全国レベルの場所に出演という、余りにも差が有りすぎる出来事にパニックを起こしたのだ。
だが、このパニックこそが一番大事な成長要素なのだ。
「向いていない」と気づいた高校生は、それはそれで良しだし、それからプロを目指し実際に活躍している者もいる。
それは「これでは話にならない」と気づいて練習に励んだのだ。
どんなことでも、こういった体験、パニック体験を持てなければ、自分の事には気づけないのだ。
ここでパニックを起こさないというのは、余程の天才か、相当鈍いか。
つまり、自分は誰でどこで何をしようとしているのか、を分かっていないという鈍さだ。
だから、大成することは無い。
何かしらを気づいた人は、音楽をやっている人の価値を理解できるのだ。
そして、それを発展させ色々な人の努力や体験した苦労を理解できるということだ。
そして何よりも、自分の住む世界の狭さを知るという、人生で一番大事な要素を体感できるのだ。

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