人の魂に届く自分を作る

まるでナマケモノのようにゆっくりした動作でパッキングをしている。
昨日は、まる1日寝ていた。
風邪は寝るに限るし、それしか対処法はないからだ。
少しボーッとしているが、咳も徐々に治まっている。
明日からはAmsterdamでBalletのワークショップが待っている。
少なくともAmsterdamは日本より寒い。
防寒対策をしておかなければと思う。
と、言っている尻から春の「武禅」の申し込みを開始したら、早速申し込みがある。
この忙しが吉と出るか凶と出るか。
それは誰にも分からないが、やることが有るというのは幸せなことだ。
「武禅」での正面向い合いでは、向かい合っているのは誰で、誰に向かい合っているのかが分からない事が多々ある。
そんな現実離れしているような事を目の当たりにする。
もちろん、受講者が別の受講者と向かい合っているのだが、残念ながらそこには「向かい合わなければ」という意識しか見えない。
「私が誰と」は無いのだ。
しかし、残念ながらそれが日常だ。
それこそ私は誰?状態なのだ。
私で無くても口にすることを、あなたで無くても誰であっても頷く口調があれば良い。
そんな会話が日常だ。
「私があなたにだけは」という個人的な姿勢が一切見えて来ないのだ。
例えば、行儀の悪い子を見かけた時に注意をする。
これは今日の日本では相当勇気のいることだ。
話は逸れるが、それはクレーマーと言われる輩が、優位な世間だからだ。
あるダンスの先生が、「どうして子供を呼び捨てにするのか」と注意を受けたそうだ。
学校は「子供達はお客様だから」と言ったという。
先生は「いや、子供達は生徒であって、お客様ではない」と反論したが全く通らないそうだ。
もちろん、親しき中にも礼儀あり、は確かなことだが、この先生の場合は当人のキャラもあり、生徒たちと深い信頼関係で結ばれているからこその呼び捨てなのだ。
それも見て取れない大人って一体何なんだ?
それこそ、何も見えていないのだ。
こんな歪な世間だから、クレーマーという幼稚な存在を優位な立場に置くのだ。
話を戻すと、先程のように行儀の悪い子に注意をするのは、そこに対象のものが明確にある。
「行儀の悪い子」だ。
そして注意をする「私」と、完全に対象があり成立する。
実は、そんなことは当たり前のことだ。
しかし、当たり前ではないのが世間だ。
対象があるから言葉があり、声があり態度があるのだ。
対象が無いから、電車の中で化粧も出来るのだ。
恥ずかしいという概念は、対象があるからこそのものなのだ。
また、動物を見た時、その声は誰かに向けているのではなく、確実に対象のものに向かっている。
そして届く。
だからそこに反応が起こり状況が動く。
ここの「対象がある」というところが、「武禅」の根幹である。
3月19,20,21日。
魂に届く自分を作り出す。
セラピスト系の皆さんには、相当役に立つ合宿です。

Follow me!