おばちゃんには負けへんで
「失敗するのが怖い」とか「失敗は間違い」という、何だか幼稚園児が先生に叱られるから、と言っているのと、変わらないレベルの固定観念を持っている人が多いのに驚く。
固定観念と言えば堅苦しいが、迷信に振り回されていると言う方が適当だろう。
そんな人に、「ではこうしてみたら」といくら行ったところで、殆ど意味を成さない。
それは、言われたことを理解はするが、行動は絶対に伴わないからだ。
「失敗するのが怖い」のだから。
私の教室に来る人の中にも、とどのつまりがそういう人は多い。
とどのつまりというのは、上っ面は見えないが、行動を起こすという段になった時に見えてくる、という意味だ。
ブログでも時々書いている、教室の最年長者、今年75歳になるご婦人がいる。
元々は教師だ。
だから頭が硬い。
自分がやりたい事には柔らかいのだが、最後は「失敗するのが怖い」と逃げていく。
そんなパターンの人生だ。
しかし、私の教室に通うようになり(15年以上)、それも少しずつではあるが氷解していっている。
つまり、年々柔らかくなっているということだ。
それだけでも驚異的な事だが、一昨年、何を思ったのか、愚息の和太鼓教室に通うようになった。
「ええんとちゃうか、何でもやってみたら」と励ましていた。
先日、神戸でその教室の発表会があり、そのご婦人も出演の機会を得た。
「太鼓を叩いているだけなら何とかいけるけど、振り付けがあるから、それをすると頭が真っ白になってしまう」と嘆いていた。
それこそ「失敗するのが怖い」が足を引っ張っている状態だ。
本番は、間違いながらも、つまり、失敗しながらも舞台を務めた。
舞台では「失敗したらどうしよう」も、「あっ、間違えた」も関係なく、容赦なく時間が流れる。
しかし、間違いなく当人はその時間の中にいる。
それが正しく人生なのだ。
普段の日常なら、「失敗するのが怖い」と立ち止まる時間があるから、その事に惑わされるだけなのだ。
しかし、本当は立ち止まる時間など無い。
自分が「立ち止まれる」と決めているから、そして、自分の持つ環境がその立ち止まりを許すからだ。
実は、自分が立ち止まっても、この舞台と同じように時間は前に進み続けているのだ。
当たり前のことだ。
しかし、自分の「失敗するのが怖い」、つまり、自分勝手に自分の持つ迷信の殻の中に入っているから、時間が進み続けているという実際がその時は見えないだけだ。
この75歳の勇気あるチャレンジは、見事に功を奏したのだ。
終演後の晴れやかな顔が、その事を物語っていた。
「偉い!」と言ってられない。
この75歳のチャレンジは、私の中の何かに火を付けてくれた。
「おばちゃん、見ててや。負けんようにやるからな!」