発想の転換というけれど

「発想の転換」という言葉をよく聞くし、私自身もよく使う。
その事は理解できるが、では何故発想を転換できるのかを考えて見た。
それは、一つの事をじっくりと考えるからであり、その事で行き詰まりを味わうからだ。
例えば、ドラムでどうすれば速い一つ打ちが出来るか、を練習する。
ああでもない、こうでもないと考えながら試行錯誤を繰り返す。
しかし、ある段階から前には進まないとする。
しかし、諦めずに「どうすれば」を繰り返す。
しかし、答えは出ない。
そこで行き詰まりだ。
それでも尚諦めない。
そうすると、視点を変えなければ前に進まない、ということを身を持って知ることとなる。
そこからが発想の転換の領域だ。
何かを変えなければ前に進まないのだ。
その何かは「何か」。
「ではこうしてみよう」それが発想の転換だ。
もちろん、そこで知識を得る、ということも大事なことだ。
自分以外の考え方なのだから、それも発想の転換を喚起してくれるかもしれないからだ。
だから、発想の転換とは、物事に行き詰まらなければ現れないものだ。
そんなことを、つまり、行き詰まりを何度も何度も繰り返すから、発想の転換がクセ化され、常に「ではどうするか?」になるのだ。
だから、もしも「発想の転換」についての本があり、そこにそういった事が書かれていなければ、その本は本質的ではなく、発想の転換という、方法論の羅列だから、また行き詰まりが起こるということだ。
もちろん、発想の転換という、自分自身の能力を開発するのに、他人の頭を使う事自体が間違っているのだが。
そんなことを、巣鴨の商店街を歩いている時に気付いた。
そこから言えば、私は行き詰まったことがないと思っていたのは間違いだ。
自然と発想を転換して、そこを切り抜けていたからだ。
だから、行き詰まりをどれだけ沢山味わっているか、ということだ。
そして、その裏には、決して諦めないという精神があるのだ。
自分がやりたいことを「諦めてたまるか!」という精神だ。
何が何でもだ。

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