感情こそが人間だ

以前、「武禅」のレポートを読むと、自分自身や「武禅」でのことを評論調に、あるいは、自分を他人事とした調子での感想文が増えていると書いた。
それは気取っているのか、あるいは、そういった世間の風潮の影響なのか、と思っている。
しかし、何れも自意識が成長していないのだけは確かだ。
そして、その書き方は、自分自身への防御でもある。
つまり、何らかのこころへの刺激が直接的に自分に届かないようにしているのだ。
いわゆる「傷がつく」のを防ぐためだ。
傷つく前に防ぐというのは、いかにも正しいように感じるだろうが、傷つくかどうかを体験してみなければ分からない。
もっと言えば、よしんば傷ついたとして、そのことを一つの勉強とすることが、一つ成長するということに繋がるのだ。
昔、目を見ないで話す少年がいた。
どうも挙動がおかしいので、どうして目を見ないのか、と聞くと、親から目を見たら洗脳されると言われ育ってきたという。
それはオウムの事件があった当時だ。
「目→洗脳」という図式が完全に間違っているとはいわない。
しかし、それはその状況があったらという話であり、千に一つも遭遇しないことだ。
そのことに振り回されて、その少年は少年時代を「変な子供」というレッテルで過ごした事になる。
間違った保険は、全く異なった人格を形成してしまうのだ。
喜びをこころから喜べず、その出来事を淡々と話す。
悲しいことを淡々と文章に綴る。
怒りも持てずに他人事のように解説出来る。
もはや人間ではない。
それこそコンピューターに組み込まれたレンズを通し、人工知能が解説しているのと同じだ。
感情を分かち合えてこその人間だ。
今日、一人の青年が川崎市から三浦半島の先端まで歩いた。
50㎞程だそうだ。
歩き慣れている人には大した距離ではない。
しかし、その青年はそういった事をしたことがなかった。
つまり、全く意味のないことを一生懸命にやったことがなかったのだ。
10数時間かけて踏破した。
彼は心のそこから感動した。
人間の第一歩だ。
こころの底からの感動。
これが人間にとっての最良の治療であり薬だ。
人間性回帰への。

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