どうすれば?は智慧を磨く作業だ

見取り稽古とはよく言ったものだし、本当に良いシステムだ。
全ては「見えている」筈だからだ。
昔は仕事でも「見習い」という募集があった。
今で言う研修生なのかもしれない。
見習いは「How」という言葉を持たないのだ。
その「どうすれば」を自分の力で見付け、そしてそれを行動し失敗の積み重ねで修得するのだ。
50年以上前になるが、私の第一歩はその「見習い」から始まった。
ジャガイモを剥く、リンゴを剥く、そんな作業を見て覚えるのだ。
当たり前の事だが、直ぐに出来る筈もない。
来る日も来る日もその作業だ。
出来ない自分に頭にきて、安い給料だがそれをリンゴとジャガイモに全て使った。
家で訓練したのだ。
「リンゴが血で赤く染まる、それを皮だと思ってまた剥くんや」先輩がそう教えてくれていた。
見ているものが「出来る」ようになると、ペティナイフの持ち方やリンゴの持ち方が、どうしてこうでなければいけないのかが理解できる。
もちろん、ただ出来るを目指した人は、皮が剥けたで終わる。
私は「どうして」という疑問を持っているから理解になるのだ。
だから、私の中では、理解出来るとは、実際に出来ることだとこの頃に定着したのだと思う。
その後の私の人生は「全ては見えている」がキーワードになっている。
よくよく考えると、この「How」は、それぞれが異なる筈なのだ。
このリンゴを剥くという単純作業一つとっても、手先の器用な人、不器用な人でやり方は変わってくる。
また不器用でも器用になる人、器用な人でも根気の続かない人。
千差万別だ。
だから自分の「どうすれば」を持たなければスムーズにはいかない。
もちろん、「どうすれば」という一般論を知ることがヒントになることはある。
しかし、大方の場合は「どうすれば」を知りたい人は、知りたいだけでやりたい人ではないことが多い。
もちろん、例外的にやりたいに転換する人もいる。
やりたい人、やれるようになりたい人は、現代であっても自分の「どうすれば」を見つけ出す筈だ。
そして、その「どうすれば」を探求することこそ、自分自身の智慧という働きを開発する作業なのだ。

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