日本を支える力は日本式のシステムから

「全部見えてるで」とよく言う。
何が全部か?また「見えている」というのは?
これは「何を見たいのか」が全部であり見えているになるのであって、文字通り「全てが」見えているのではない。
つまり、人は自分の見えるもの、自分の見たいものしか見えないのだ。
但し、瞳には全てが写っている。
しかし、それを処理する段階で、選り分けられるのだ。
サヴァーン症候群という病気がある。
そしてそれを表現する技術がある場合、例えば絵として現した場合、写真ではないか、と思われる程精巧な仕上がりに驚かされる。
つまり、見えたまま、見たままそのものだ。
そういった具合に、我々の瞳には写っているのだが、そこにそれぞれの人の持つ意識のレベルが介在することで、見えるもの見えないものが、人によって全て違うということになる。
だから、人は同じものを見ていないのだ。
それは本を読んでも、映画を見ても、音楽を聴いても、お菓子を食べても、厳密には同じものを共有されてはいないのだ。
その意味で、人に何かを正確に伝えるというのは至難の業なのだ。
だから、逆に大体で良いし、抽象的な伝え方が良いのだ。
もちろん、そうなるとそのことを解析出来る力が必要になる。
その意味で、日本の伝統的な師弟関係のような事が、最良の構造だと分かる。
つまり、本当に知りたい人にしか知り得ない、それを身に付けたい人にしか身に付かないということだ。
世界に誇れる日本の町工場の技術は、そんな構図から生まれているし、匠と呼ばれる技術も同じだ。
伝統芸能も全く同じで、特に見取り稽古というシステムは最良のものだ。
まず、イメージを確かなものにし、その数年後にやっと実際に取り組むからだ。
習ってできる、教えられて出来るものは、誰にだって出来ることであって、「私」がやらなくても、誰かでもやれるのだ。
さて自分の人生、何を選ぶかだ。

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