気持ちや人情に「触れる」
今日はお昼から大阪で公演だ。
http://ilt.jp/extra05/entry.html(飛び込みも大丈夫です)
バタバタしている中で、講演内容を考えるのは難しい。
まるで綱渡りだ。
「触れる」ということでの話なので、改めて「触れる」を考え、連想ゲームのように、触れるにまつわる思い出を引き出す。
今、私が一番興味がある触れるは何か?
意識に触れる事だ。
また、気持ちに触れることもある。
しかし、これはもしかしたら言葉が違うだけで、同じものかもしれない。
言葉の違いは、それを生み出した世界や文化の違いだ。
現象は同じでも使う言葉が違う場合もある。
それらは、ヨーロッパでのワークショップで、色々体験した。
人情に触れるという、日本ではほとんど死語になっている言葉がある。
しかし、それは今も脈々とある。
もちろん、外国でもある。
多分それらは、人をリフレッシュさせるための、一番良い薬なのではないかと思う。
そういった人の気持ちや人情に触れた後は、自分の気持ちや考えていること、何もかもが消え晴れやかな状態になるからだ。
そして、改めて自分を振り返らせてくれる。
このことを考えると、気づく人と気づかない人とに分けることができる。
気持ちが自分に向いている人は、まず気づけない。
もちろん、結果論的に判断が「これは人情なんだ・他人の気持ちだ」等と働く場合もある。
それは全く意味がない。
それは、そこに晴れやかな気持ちが現れて来る筈もないからだ。
私は、人情や人の気持ちを沢山体感できるようになったのは、多分40歳代に入ってからではないかと思う。
自分自身の何かが削ぎ落とされなければ、直接そのことを体感することは出来ないのだと思う。
人情や気持ちは、人としての働きなのか、生命としての働きなのか、まだまだ分からないが、確かにそれは有り、そのことによって人は確かに良い方向に変化する。
気持ちに「触れる」人情に「触れる」決して浪花節の世界の話、演歌の歌の世界の話ではない。それこそが、人の「関係性の現れ」なのである。