居心地の良い世界からは抜け出せない
意味不明の言葉を聞けば「それはどういう意味ですか」と聞く。
若い人に限らないが、とにかく話をすると、必ず意味不明の言葉がある。
言葉の意味もさることながら、その人との関係の中での意味不明ということだ。
とって付けたような言葉、とでも言おうか。
そういったその人との全体のバランスとして、違和感を感じる言葉に反応する。
だから聞き返す。
「それはどういう意味?」と。
すると、大方は答えられないのだ。
これが不思議だ。
「今、私が聞いて分からないから聞き返しただけやで」。
昨日の特養での研修でも多々あった。
また、外国系の治療というか身体何とかというか、そういった事にかかわっている人の話にも多い。
そして、介護やケアマネージャーといった、福祉にかかわる専門職にも多い。
それはどうして?と考える。
多分、学校やセミナーで覚えた言葉を「雰囲気のまま」鵜呑みにし使っているのだろう。
そして、人から聞き返されないので、無意識的に「自分では理解している」ということになっているのだろう。
自分で分からない言葉は使うな、ワークショップでも教室でも話す。
それは、自分の言葉で自分が迷子になるからだ。
まぎれもなく、自分自身の行動は自分が決めており、物事を考えるのも自分のその言葉だからだ。
しかし、人はどうして聞き返さないのかも不思議だ。
分かった風にしていなければ体裁が悪い。
知らないと思われるのが嫌だ。
何を言っているのか分からないけど、面倒だから聞き返さない。
というように、色々な聞き返さないがあるだろう。
だから、誰も信じるなになるのだ。
突っ込み慣れをしていない、聞き返し慣れもしていない人たちが大半だからだ。
これは、人を陥れる為の風潮だと言えるのではないか。
それぞれの人のレベルを下げる為の風潮だ。
しかし、その風潮は居心地が良い。
だからはびこる。
この世界から抜け出すのは難しい。
それこそ「受け入れてくれている」という夢が覚めない世界だから。
さて、明日は講演だ。
話す事は沢山あっても、その順序が決まらない。
「触れる」ということから発展するのではなく、そこに帰結しなければならない。
もちろん、そんなことは誰にも決められていないが、そういう決め方をする。
その縛りが自由性をもたらしてくれるからだ。
それこそ、話がどこへ飛んでも「触れる」へ落とせばよいのだ。
「触れるというお題を頂きました」という寄席のノリだ。
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