ロボットも人工知能も超えられない領域
気持ちと同じように「心地良い」という言葉もあるが、これにもレベルがある。
「気持ち」としか言いようがないから仕方がないが、気持ちが深いところで通じ合うと心地よい。
情動が自然と動き、得も言えぬ感じになる。
しかし、大方の人の使う「心地良い」は、中学生や高校生のそれた大差ない。
武禅での「正面向い合い」の心地よさは、そういった浅いレベルのものではなく、深い気持ちの共振だし細胞同士の共鳴だ。
だが、「正面向い合いとは?」と判断を働かせてしまう人が多いので、およそここには辿り着かない。
そういう知識としてのことではなく、むしろ動物的な事なのだが、人は「技術として捉える」から判断が自動的に働くのだ。
しかし、余りにもこの「〜とは?」と捉える人が多いのには驚く。
しかし、その都度フォーサイスカンパニーのダンサー達や、沖縄の若い子達、その他「深い気持ち・心地良い」を分かち合えた人がいることを思うと、どうして技術として捉えるのか分からなくなる。
そこの違いは何なのか、そんなことを考えてしまう。
今や、カウンセリング全盛の世の中のように思えるが、こういった共振や共鳴の出来ない人が、どう人と向き合い、人の話に耳を傾けられるのか不思議でならない。
中には、人と向き合えるカウンセラーもおられるのだろうが、私の知る限り皆無だ。
それは言葉の「意味」だけで成立させているからだ。
「武禅」で、曲がりなりにも人と向き合うということを修練している人なら、そういったカウンセラーに対し即座に違和感を感じ取るだろう。
「あなたには聞いてもらいたくない」となる。
しかし、その違和感を感じ取るという、動物的な能力を発動させないで生きてきている人、つまり、「意味だけ」を求めて生きている人には、残念ながらそれは起こらない。
だから、それらが成立しているのだろうと思う。
もちろん、それはそれで仕事として成立しているのだから、私がとやかく言うべきことではない。
しかし、その事が人と人との関わりを、気持ちを抜いたものにしているのだ。
これは、現在目ざましく発展を続ける、ロボットや人工知能にとって替われる人達だと認識しているのだろうか。
明日研修をする特養でも、ロボットを導入している。
歩くことが困難なお年寄りに装着することで、歩行が楽になっている。
そして、そのロボットを取り外した時、そのお年寄りは自力で歩けるようになっているのだ。
この場合だけを考えても、所謂療法士以上の働きをロボットはしており、しかも安価で導入出来る時代になって来ているのだ。
ロボットが超えられないこと。
人工知能が超えられない領域。
そこが人は気持ちを持っており、それをコミュニケーションのベースとすることだ。