話が通じない人

結局のところ、殆どの人とは話が通じない。
もちろん、それは私だけの話ではない。
それぞれの気質や教育のレベル、生活背景、時代背景他、とにかく全てが違うのだから、通じなくて当たり前だ。
同じ環境で育った兄弟でも中身は全く違う。
話が通じないから駄目なのではなく、話が通じないということに気付かない事が駄目なのだ。
気付かないのは、自分から「関係」を断ち切っているということだ。
どう通じないのかを探りだす、それが会話の真意だ。
結果、「この人とは話は通じない」ということを知ることになる。
しかし、話が通じないから付き合わないということでもない。
場合によっては、話が通じないほど違うから、付き合っていて楽しいと言うこともある。
ただ、真意を伝えようとしても、そこが伝わらないという、話が通じないもある。
その場合は、深い方に合わせていけば良いのだが、相手は話が通じないということで離れて行く。
それも自ら進んで関係を断ち切っていることだ。
私自身は20歳代の前半までは、人を好き嫌いで判断していた。
音楽などその典型だ。
しかし、はたと気づいたのは、好きだから素晴らしい音楽だと思っているのか、素晴らしい音楽だから好きなのか。
私自身は素晴らしい音楽を求めているのか、好きになれる音楽をもとめているのか、という疑問が湧いた。
そこで、素晴らしい音楽を求めているのであって、単に好きな音楽を求めているのではない、という結論に達した。
そこで一辺に世界が広がったし、深く音楽を体感していけるようになった体験がある。
人にしても、私が決して好きなタイプではない知人がいた。
しかし、武道の話題で長時間話し込むと、相当レベルが高い事が分かった。
話が深すぎてチンプンカンプンだったが、直感的にその人の話が私の奥深く入り込んできたのが分かった。
そこからその知人との深い付き合いが始まった。
もちろん、今でも嫌いなタイプだ。
そういった体験が、人の話を聞く、ということの修練になっていたと、この年になれば気付く。
10代の頃、水商売をしていた。
そこでカウンターに座る、様々なお客さん。
その一人一人と話を合わせていく、というのも、実践的修練になっていたのだ。
聖徳太子ではないが、一度に10人ほどの違ったお客さんと話をしていたのを思い出す。
10代というのは、チャレンジさえすれば相当の事が出来る時期なのだと、これも今になって分かる。

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