たった15年が、その道一筋?
毎回の事だが、「武禅」が終わり、全員のレポートを読む。
「~に気付いた」とか、色々な自分に対するコメント、あるいは気付きが書かれている。
また、「~しようとしたが思うようにならなかった」というような言葉もある。
気付いたというのは、「問題を見つけた」ということだ。
決して、直ぐに出来ることというのではない。
気付いた→納得、という図式は間違っている。
常に書くように、納得すれば全ては終わるのだ。
納得はある意味で、自分自身の成長を止める言葉でもある。
これは技術で考えれば直ぐに分かることだ。
例えば「包丁はこう使うのか」と気付いたとする。
それを自分のものにするには、相当の時間と工夫がいる。
当たり前だ。
今まで知らなかった事を知っただけで、包丁を上手く操れる筈もない。
もしも、それが分からないとすれば、まず想像力を付けることだ。
「出来ない」から「出来る」に至るプロセスを想像する事だ。
この想像力の貧困さは世間の風潮でもある。
説明が分かりやすい、ということが大事、あるいは偉い、という事になっている。
それは逆に言うと、説明できるようなことしか巷には無いということだし、小学生でも分かる説明でないと、理解できないということでもある。
自らが自分の能力を低下させているのだ。
先日、〇〇一筋何十年というご大層な能書きを聞いた。
よく聞くと、その道僅か15年だという。
思わず「えっ」となった。
たった15年のことをその道一筋というようになっているのか、と絶句した。
15年など見習いに毛が生えたようなものだ。
しかもそれは料理人の話だ。
無限の可能性がある世界の話だ。
「毎日が勉強です」と愁傷な事を言っていたが、そんなことは当たり前のことだから口に出すべき言葉ではない。
それくらい感性が鈍くなっているのだろう。
また、自分の持っている言葉、知っている言葉は実体化出来ると思っている場合もある。
もちろん、実体が先にあり後から概念としての言葉がある場合は、当然実体として実現できる。
しかし、知識として知っている言葉を即やってみる。
しかし、「出来なかった」とこれまた即決する。
一体それは何なんだ?
何もしていないということに他ならない、ということを知らないということだ。
知っている言葉を行動に移す、ということは間違っていない。
がしかし、その言葉をどうすれば実現できるのか、という具体的行動としての試行錯誤に、どれだけの年月が掛かるのかを知らないのだ。
そして「出来なかった」つまり、それこそ挫折体験を自らが生み出し、自らでダメ人間のレッテルを貼る事になるのだ。
物事を成すには時間が必要なのだ。
何かに気付き、「どうすれば」と悩み、そして何か一つを試してみる。
延々と試してみる。
その積み重ねが、そのプロセスが物事を成していく道である。