こころが無い言葉
昨日95回目の「武禅」を終えた。
医療関係者から大手ゼネコン、大学生にOL、役者にダンサー、公務員、中小企業の社長他、多種多様な人が集う。
期待通り、何時もよりは暖かい。
全セクション道場で出来たのは良かった。
「声を届ける」も一通り体験出来たようだ。
こちらとしての収穫もある。
「どうすれば、ある程度体感出来るか」を毎回考えているが、今回は「流れに乗る」に関して思わぬヒントが転がっていた。
それを試すと、相当よい成果が上がった。
それは相手の流れに乗ることと、声を届けるをミックスさせたものだ。
相手の反応が明確に分かること、その事がある程度のレベルだが、検証材料となった。
「明鏡塾」ではないが、声を届ける事で相手の身体は反応し、こちらの誘導に応じるのだ。
本当かヤラセかの判別は、動いた身体が心地よかったか、そうでないかで、その事は表情を見ていると読み取れる。
だから、ある程度の判別はつくのだ。
1年ぶりの人、6年ぶりの人、毎回参加の人、そして初めての人。
初めての人は目を白黒させる。
それは仕方がない。自分の概念の中に無いことで、各セクションは進行するからだ。
声を出し言葉を並べる日常で、それでは相手に何も届いていない、と言われるからだ。
どれだけ一見丁寧にやろうが、気持ちが悪い以外の何物でもない、と徹底的に否定されるのだ。
俗にいう「こころが無い言葉」に対し、違和感を感じることを覚えるからだ。
固定観念がどれ程強固で、それに支配されているかに時間とともに気づいていく。
意思のない言葉や声、まるで幽霊のようだと気付く。
しかし、それが日常だということにも気付いていく。
「一体自分は何なんだ」そんなことも考えだす。
そうなるとしめたものだ。
今回も、そういった気付きから、どうすれば良いのかに至るまで、みんなとセクションを通して考えていった。
但し、自分だけの力でである。
ここに集う人達は、そういった自分に気付くために集っている。
お互いが切磋琢磨しているのだ。
本当にの切磋琢磨だ。
出来ていないことを出来ていないと直球を投げ合うのだ。
やれ傷が付いただの、ストレスだのという戯れ言の世界はまるで通用しない。
最後に大勢の前に立つワークをやった。
大勢の前で話すこともあるだろうからだ。
「それは仮死状態やで」全員大笑いだ。
「まるで表情が無いのに声だけでている、それはおかしいやろ」
最後の直球だった。