水とお湯の境目は?

先日の「明鏡塾」で、受講してくれている一人の整体師が、非常に深い体験を話してくれた。
水風呂に入ろうとしたが、冷たくて入れない。
しかし、無理をして入った。
身体が冷えてくるので、それを紛らわす為に色々と考えることにした。
お湯は熱い、でも気持ちが良い、そんな事が頭を過ぎった。
お湯?水?
一体水温が何度になった時、お湯というのだろう?と。
水とお湯の境目はどこなんだ?
そんな疑問が湧いたそうだ。
これを聞いて受講者達も大笑いした。
しかし、重要な気付きだ。
物には名前がある。
大凡この世の中で名前の無いものは無いのではないか、と思えるほど名前という記号が付けられている。
水もそうだ。
それは単なる記号であって、それではない。
しかし、何時の間にか、記号はそれのように思ってしまっている。
水は水、お湯はお湯。
それが単体である時は何の問題もない。
しかし、この受講者のように、水とお湯の境目は?となると、たちまち答えに窮する。
私は朝と昼の境目に疑問を持ったことがある。
その事が、全ては記号であって、それではない、と発見した。
別にそれがどうしたということなのだが、物事を厳密化しようとすると、必ずぶつかる壁だ。
厳密化は、実際の行為や行動を変化させたり、変化させる動機になる。
身体は使うものなのか、使われるものなのか。
意識との兼ね合いの事だ。
私は「足は使われるもの」と考えた。
手や腕も「使われるもの」とした。
何が使うのか、あるいは、誰が使うのか。
それは目的であったり欲求が使うのだ。
決して「私が」直接使っているのではない。
PCに向かう、それは「何かを書こう」という意識や欲求があるからだ。
そこから考えると、身体を操るのは難しいことが見えてくる。
何しろ、先ほど言ったように、欲求や目的が身体を使って来たのだからだ。

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