色々な話を
ケベック最終日は、実技の他に色々と話しをした。
質問があるからだが、どこへ行っても同じで練習の方法を知らない。
だから、そこを詳しく説明した。
「一体何を成長させるのか?練習をしたら何が良くなるのか?」
そんな話に終始した。
ただただ、新しい動きを覚えたり、動き方を覚えるのを練習だと思っているのだ。
もちろん、それも練習だが、そんなものは覚えたら出来るから、練習をする必要もない、つまり、時間を取る必要もないということだ。
例えば、「ねじれ」をする。
すると必ずと言って良いほど教える人が現れる。
「どうして教えられるのか?」だ。
もちろん、単純なねじれは、少し身体能力の高い人なら分かる。
しかし、私の教えていることは、ねじれを通してその刺激を感じ取ること、そして、その断片的な刺激を一本の線に仕立て上げることだ。
また、ねじれという筋肉の伸縮を、伸縮のまま使うことで、自分で腕を動かさない、というところに持って行くことだ。
初めて私のワークに参加した人に、そんな事は分かる筈もない。
つまり、教える人は「人は誰でも自分と同じレベルだ」と思っている人だ。
そんな事も分からないとはどういうことだろう?
こんな質問もあった。
「どうしたらモチベーションを保つ事が出来るのですか?」というものだ。
もちろん、一般的な答え方は色々ある。
しかし、それは机上の空論だ。
20年ほど前社員研修などで、動機付けややる気を出させるセミナーの開催を要請された。
意味が分からなかった。
何故なら、それは他人が何とかするものではなく、自分、その人そのものの問題だからだ。
若いダンサーに、「私にはモチベーションなんて無いよ、それをやりたいからやっているだけだよ。やりたくないのなら無理にしなくていいから。ただ、自分の人生だからそれをじっくり考えること。そして物事はやり続けなければ出来ない事が出来るようにはならないよ」と答えた。
有難そうな言葉をいくら並べても、自分が動くことはない。
自分を動かすためには、こころが動かなければならない。
それだけは言える。
理屈では他人も自分も動かないのだ。
また、例えば「ねじれ」ということで、腕を握らせて欲しい、という、いわゆる体験したいという人たちが沢山いる。
もちろん、その事自体は間違っていない。
武道系の人達は、特にこれが多い。
一体何を体験できるのだろうと何時も思うが、その場の状態で体験してもらうこともある。
大方は「力任せで投げられたのではない」という感想を持つ。
で、それが何なのだろう。
日野はこうしてこうやっているのではないか?いや、こうかもしれない。
等々の仮説を持っていなければ、何を知り、何を体験出来たというのだろうか。
ただ力任せになげられたのではない、という事を体験しても、それを自分の何に変換出来るのかだ。
前もって、力任せにしてはいけない、だからこうするのだ、と話しているのだから。
これらは、ケベックに限った話ではない。
どこででもある話だ。
また、こんな質問もあった「目的を明確に持ち、それをやっていっても出来る人と出来ない人がいるのは何故だ」というものだ。
答えは単純だ。
「やり方が間違っているか、その事に向いていないかだ」
それはやり続けなければ分からない。
だから、人生は賭けなのだ。
やり続ければ、自分の向き不向きも自分の力で分かってくる。
それをしないから自分を見極める事が出来ないのだ。
当然、色々な情報に振り回されることになる。