不思議なこと
お待たせしました。
秋の「武禅一の行特別行会」の受付を開始しました。
https://www.hino-budo.com/buzen4.html
今回は、出足が早いです。
いきなりお申し込みが入ってきています。
沖縄からは2人も。
もしかしたら、締め切りが早いかもしれません。
「失敗するのがいや」あるいは「失敗するのは間違い」という考え方は、どこで身につけるのだろうか。
どう考えても、先天的なものではないだろう。
ハイハイ位ができる赤ちゃんを見ていたら、自分がやろうと意思決定をすると、どんどん進んでいく。
チャレンジ精神の塊だ。
だから危険と隣り合わせの時期だ。
その時期に相当身体も脳も発達する事は、素人の親が見ていても分かる。
チャレンジ精神の塊というのは、失敗という言葉が自分の記憶に無いということだ。
何時その言葉を持つのか。
単純に考えれば、自意識の発達と共に、ということだろう。
自分の中に他人という意識が芽生えてからだ。
もちろん、この頃は本当の他人ではなく、自分の中で生まれている他人、いわゆる幻想の他人だ。
その発達は「恥ずかしい」という感情を生む。
もちろん、それは成長過程としてその通りだ。
何時の頃からか、その恥ずかしいが、現実の他人の視線に変わる。
しかし、問題はそこで、その他人の視線とどう向き合うかが、大きな分かれ道となる。
つまり、見栄や体裁もいいのだが、それに振り回されてしまって、実際の自分を成長させる事を忘れてしまうのだ。
恥ずかしいという心理が生まれたら、恥ずかしいことをしなくなる。
当たり前だ。
それはその通りだ。
しかし、恥ずかしいことではなく、失敗したのを見られたら恥ずかしいというのも芽生える。
それもその通りだ。
であれば、失敗しないようにするにはどうすれば良いのか?を考え出せば良いだけだ。それは全くしない。結果「失敗するのが嫌・失敗は間違い」となるのだろう。
もちろん、そこには学校教育という過程が大きく影響しているのは確かだ。
しかし、それに気付けば変えれば良いだけだ。
変えれば良い、変える力を持つ自分、ということを、どうして真剣に考えないのか。
そこが不思議でならない。