一生の宝もの
お待たせしました。秋の「武禅一の行特別行会」の受付を開始しました。
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会話が出来ない理由の一つに「◯◯と思われるのではないか」「ちゃんと喋らなくては」もう少し深く入ると「恥ずかしい」という幼い自意識がある。
その前に、話さない事こそ恥ずかしいことだと、どうして思えないのか。
自分の事も話せないなんてあるのか?
仲間もどきとは、あるいは、何時も一緒にいる人達とは、いくらでも駄弁る事はできるが、年齢が離れたり、初対面の人と話せない。
大勢の前では話せない。
もちろん、必要のないことは話す必要はない。
しかし、同時にその場に参加しているという事がある。
実はここが大事なのだ。
場に参加しているというのは、場を共に作ろうという中身があるのだ。
自分の居る場の空気が硬いとか柔らかいとか、それらはそれぞれの個人が口を開くかどうかにかかっているのだ。
会話の突破口が見つからない。
誰もが話し上手ではないし、そんな人は一人もいない。
今、話し上手に思える人も、最初は話せない人だったのだ。
人からどう思われようが、大したことではない。
一時のものだ。
それよりも、どう思われようが場を作れる人になる方が大事だ。
その為に、どれだけ失敗しようが笑われようが、チャレンジすれば良いのだ。
「誰でも最初は素人だ」
私は自分で道場を建てた。
棚も犬小屋も作ったことが無い。
トンカチは持ったことがあるが、チエンソーなど見たことも無かった。
それで取り組んだのだ。
山の人達には笑われ、直ぐにケツを割って都会に帰るだろう、と散々陰口を叩かれていた。
そんな事は私には関係が無い。
痛くも痒くも無いことだ。
それから10年。
今の道場が建った。
私にすれば、それも大したことではない。
やったから出来た、それだけのことだ。
ただ、その過程において、色々な事を学んだ。
それは私しか学んでいない。
建てたのが私だからだ。
「私」がやるかやらないか。
その為に色々な方法や工夫はいる。
それが自分自身だけの一生使える宝物になるのだ。