社会の中の自分

例えば、打ち上げや一寸した飲み会がある。
そこで不気味な沈黙をする人、自分の世界の中だけの話をする人。
所謂「場違い」な人「空気を読めない」人が沢山いる。
それは、自分にとっては普通なのだろうが、どれ程他人を不愉快な思いにさせるかを知らない。
その場違いが、他人を愉快にするのなら良いが、不愉快にさせるのは駄目だ。
今年の夏の合宿では、その事でキレた。
合宿にはフランスからも習いに来ている。
そこに必要なのは「もてなす」という意識であり行動だ。
そこに意味もなく沈黙している姿は、不気味以外の何物でもない。
そんなことも育っていない事にキレたのだ。
合宿は武道の合宿だ。
当たり前の事だが、武道は相手との関係性で成立する。
武道という形式をすることが武道なのではない。
少なくとも私はそう考える。
日常で会話も出来なくて、どうして武道という場で、相手を見抜いたり感じたり出来るのか。
会話を通して相手の人となりを知る。
当たり前のことだ。
それが出来なくては、誰が考えても、武道など出来る筈もない事が分かる筈だ。
しかし、大方は全く分からないようだ。
まるでお通夜のように、静まり返る場。
20数年前、本部の道場にある武道家が遊びに来てくれた。
その時、その人が「先生ところの生徒さんは静かですね」と言っていた。
静かなのではなく、その場でどうすれば良いのかを知らなかったのだ。
それらは、躾の問題かもしれないし環境によるのかもしれない。
しかし、そういった事はあったにしても、自分が住むべき社会の事を知るほどに気付くはずだ。
その感性までも鈍化しているのだろう。
まるで、自分が一人で生きているように思っているように見える。
社会の中で生きている。
何人もここからは逃れることは出来ないのだ。
であればどうするか?

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