20年前を思い出した
ワークショップが近づいて来た。
その前にあるパリでのワークショップも当然近づいている。
何でもパリは相当気温が落ちているらしい。
少しくらいオシャレをして、と何時も思ってはいるが、残念ながら防寒や防雨の為にジャンパーばかりだ。
今回も、受講者の一人がジャズハウスに連れていってくれるという。
となると、シャツとかジャケットを着たい。
しかし、観光ではなく仕事に行くのだから仕方がないかとも思う。
そういえば、カナダ・ケベックでのワークショップも決まるようだ。
ケベック市が招聘してくれるのだ。
シルクド・ソレイユに出演しているダンサー達だから、どれほど身体能力が高いのか想像できない。
そのダンサー達が、胸骨からの動きや、全身の連動を覚えたら、今よりも美しく力強いダンスになることは間違いないだろう。
フォーサイスカンパニーの時のように、「イメージは思い込み」から入ろうか、思案している。
イメージは思い込み、というのは、頭の中で完結しているものは、身体から外に現れることはないということだ。
厳密に言えば現れるのだが、それは気持ちの悪い表情や目付きとしてだ。
よく「〜のように」という言葉を使ったワークがあるが、まるで幼稚園児のお遊戯にしか見えない。
それは当たり前だ。
「思い込んでいるだけ」だからだ。
何度かこのブログで紹介しているが、もう20年ほど前に、ある国立大学の教授のワークショップを受けた事がある。
身体表現的なワークだったと思う。
そのワークは、まさしくそれだった。
ダンサーや学校の先生達が受講しており、教授の講義を真剣な顔をして聞いていた。
「なんで?」と、強烈な違和感と講義そのものが「私は思った」レベルのことだったからだ。
講義が終わり、実技に入った。
「触れる」から始まった。
その時、初めて一般レベルの「触れる」に出会ったのだ。
全員座った状態だったから、隣の人の足を触って、という指示だ。
触り終え「どんな感じがしましたか」と質問が飛んだ。
私を除く全員が隣の人に肯定的な感想だった。
「気持ちが良かった」だの「暖かく感じた」だのだ。
私は「気持ち悪かったし、私の足を触ってはくれていなかった」と発言したが、教授を始め受講者達は「????」の表情だった。
ついで、鳥のように、とか、犬のように、風のように、という指示が出て、全員が動く。
これには笑ってしまった。
それをしたらどうなるのか?その落とし所が全くないままの〜のようにが続いた。
そんなワークが続き、最後にその教授がダンスを見せてくれた。
中学生の体育の授業の「ダンス」以外の何物でもなかったから、「世の中どうなっているの?」と真剣に悩んだ。
つまり、意識散漫、段取りだけしか見えず、幼い自意識が表に見えているだけ。
終わると、それぞれが「素晴らしい・先生が大きく見えた」と褒め称えていた。
こんな気持ちの悪い世界があるということを知り、それには感動した。
二度と近づかないようにしよう、と思ったものだ。
もちろん、イメージを使って身体運動を操る事は出来る。
但し、身体運動そのものとイメージを直結させる訓練を積んでからだ。
その核になるのが「感覚」なのだ。